1922(大正11)年生まれの台湾出身の元日本兵・楊馥成(よう・ふくせい)さんにエッセイ「あの時、台湾は日本だった」をご寄稿いただきました。忘れられた台湾出身元日本兵の思いを多くの日本人に知っていただきたいと思います。
▼楊馥成(よう・ふくせい)さんプロフィール
1922(大正11)年、日本統治時代の台南州・下営に生まれる。地元の公学校、高等科を経て、嘉義農林学校に進学。卒業後、台南州庁農林課で勤務。1943(昭和18)年に新聞広告で軍属の募集を知り志願。シンガポールに赴き「南方派遣軍野戦貨物廠」に配属される。敗戦後、台湾に戻り、日本への密航を企てるも、当時、国民党体制下で募集していた行政幹部の試験を受けて合格し、農林庁検験局肥料調査官として勤務した。1949年に辞職し、新聞記者となり、建国前の中国を取材。その後、再度の日本への密航を企てるも、失敗し、2年間、監獄に入れられた。その後、政治犯として火焼島に送られ、約7年、自由のない生活を強いられた。農学博士として農薬に頼らない技術を開発し、農業の発展に貢献。現在、日本国籍を有していることを確認するため日本で訴訟を起こしている。
楊馥成さん |
あの時、台湾は日本だった
あの時、台湾は日本だった。あの時、台湾住民も日本国民であった。国家存亡を賭けた太平洋戦争たけなわのあの時、台湾の若者もこぞって勇躍戦場に馳せ参じ、数多護国の生贄と散華していった。
太平洋戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、5万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医療員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで大日本帝国の為に血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士たちは、生きて祖国に帰ってきても、占領に乗りこんで来た敵側統治者からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖圧政下で、日本に加担したかどに問われて残虐な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった(私も更なる拷問の挙句、罪の判決もなしに7年間の牢獄生活を強いられた)。
況や、陣没された英霊(私も終戦の翌々年親友の遺骨を首にぶら下げて戦地から故郷に帰った)に、誰も関心を寄せる者はありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府は、なぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?
戦後まもなく沖縄本島南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はつい2016年まで見られませんでした。あの時、数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及び支那大陸の各地で、日本国民として皆様と生死をともにして戦い、赫赫たる手柄を立て、又戦場の露と消え去った無数の英霊達も「大日本帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していったはずだったのに。
これらの英霊達が今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に曽ての戦友たちとともに奉祀して慰拝致したいと、数年来、地元の有志が発起し(私も5年前に那覇市に移住してから協力させてもらっているが)台湾英霊記念碑建立のために奔走してきたが、ついに摩文仁の平和祈念公園の聖域内に入居は許されず、2016年にやっと沖縄翼友会の敷地提供で聖域の一角に「台湾の塔」を建立することが出来、2016年6月26日に除幕式を挙行するまでにこぎつけた次第です。
この「台湾の塔」の除幕式に台湾からも国会議員(立法委員)が二人来られ、うち一人の原住民出身の高潞委員から「高砂義勇隊の顕彰碑」も建てたいとの要望を聞かされましたが、同じ思いを持つ人たちも少なくないと思います。
支那の明朝末期、鄭成功(母は日本人)が台湾からオランダ人を追い出した後、支那大陸から漢族(主に南方民族の血統が入り混じった閩南族や客家族)が、どんどん移住してきて、原住民の高砂族は山地へ追い込まれました。一部分は、漢族社会に溶け込みましたが、数百年来、優勢だった外来族群(日本統治者も含めて)のこれら弱勢だった原住民高砂族に対する応対は、決して公平・平等とは言えませんでした。
去る2018年8月1日、蔡英文総統が為政者として過去の弱勢族群に対しての蔑視政策の反省とお詫びを公言したことは、正に歴史的発言だったというべきでしょう。太平洋戦争で高砂族が発揮した愛国・忠勇・戦友愛は、高い評価を受け、感謝され、蛮人(野蛮人)だったイメージがすっかり払拭されたはずです。
李登輝・陳水扁政権時代に日本と台湾の有志によって、台北近郊の烏来に「高砂忠霊碑」が建てられ、来拝者が絶えなかったが、様々な経緯があって馬英九政権時代に取り壊され、再度修建された様ですが、この際、「高砂義勇隊顕彰碑」も摩文仁の聖域内に建立した方がより意義あり、英霊もより喜ばれるのではないでしょうか。摩文仁の聖域内に「高砂忠魂碑」でも建立し、先の大戦中、南太平洋のジャングルで勇敢に戦った高砂義勇隊全員の英霊(戦場で散華或いは戦後復員してから物故したかは問わず)及び他の戦場で陣没或いは復員後物故された英霊(例えば特攻隊の林昭光氏等)や戦後占領に乗りこんで来た武装集団から“日本に献身尽忠した”とみなされて報復惨殺された6名の原住民最高リーダーたち※も一緒に奉祀してその功績を顕彰・感謝すると共に、より多くの日本人・台湾人に、“昔、蕃人と呼ばれ見下げられた”先住民の同胞たちに対して、より正しき認識と温かき交流を願うものです。おそらく私と同じ思いの者も決して少なくないと信じます。その期成に皆様と一緒に力を尽くしたい。アーメン!
※1954年、蒋介石の武装集団に惨殺された原住民族群の最高リーダー6烈士:
林瑞昌氏(台北医専出身の名医、当時国会議員)、高一生氏(台南師範出身、阿里山頭目)、湯守仁氏(陸士出身の帝国軍人)、高沢照氏(嘉農出身の警察官)、同じく警察官の江清山氏、村長・方義仲氏。
太平洋戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、5万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医療員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで大日本帝国の為に血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士たちは、生きて祖国に帰ってきても、占領に乗りこんで来た敵側統治者からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖圧政下で、日本に加担したかどに問われて残虐な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった(私も更なる拷問の挙句、罪の判決もなしに7年間の牢獄生活を強いられた)。
況や、陣没された英霊(私も終戦の翌々年親友の遺骨を首にぶら下げて戦地から故郷に帰った)に、誰も関心を寄せる者はありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府は、なぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?
戦後まもなく沖縄本島南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はつい2016年まで見られませんでした。あの時、数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及び支那大陸の各地で、日本国民として皆様と生死をともにして戦い、赫赫たる手柄を立て、又戦場の露と消え去った無数の英霊達も「大日本帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していったはずだったのに。
これらの英霊達が今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に曽ての戦友たちとともに奉祀して慰拝致したいと、数年来、地元の有志が発起し(私も5年前に那覇市に移住してから協力させてもらっているが)台湾英霊記念碑建立のために奔走してきたが、ついに摩文仁の平和祈念公園の聖域内に入居は許されず、2016年にやっと沖縄翼友会の敷地提供で聖域の一角に「台湾の塔」を建立することが出来、2016年6月26日に除幕式を挙行するまでにこぎつけた次第です。
この「台湾の塔」の除幕式に台湾からも国会議員(立法委員)が二人来られ、うち一人の原住民出身の高潞委員から「高砂義勇隊の顕彰碑」も建てたいとの要望を聞かされましたが、同じ思いを持つ人たちも少なくないと思います。
支那の明朝末期、鄭成功(母は日本人)が台湾からオランダ人を追い出した後、支那大陸から漢族(主に南方民族の血統が入り混じった閩南族や客家族)が、どんどん移住してきて、原住民の高砂族は山地へ追い込まれました。一部分は、漢族社会に溶け込みましたが、数百年来、優勢だった外来族群(日本統治者も含めて)のこれら弱勢だった原住民高砂族に対する応対は、決して公平・平等とは言えませんでした。
去る2018年8月1日、蔡英文総統が為政者として過去の弱勢族群に対しての蔑視政策の反省とお詫びを公言したことは、正に歴史的発言だったというべきでしょう。太平洋戦争で高砂族が発揮した愛国・忠勇・戦友愛は、高い評価を受け、感謝され、蛮人(野蛮人)だったイメージがすっかり払拭されたはずです。
李登輝・陳水扁政権時代に日本と台湾の有志によって、台北近郊の烏来に「高砂忠霊碑」が建てられ、来拝者が絶えなかったが、様々な経緯があって馬英九政権時代に取り壊され、再度修建された様ですが、この際、「高砂義勇隊顕彰碑」も摩文仁の聖域内に建立した方がより意義あり、英霊もより喜ばれるのではないでしょうか。摩文仁の聖域内に「高砂忠魂碑」でも建立し、先の大戦中、南太平洋のジャングルで勇敢に戦った高砂義勇隊全員の英霊(戦場で散華或いは戦後復員してから物故したかは問わず)及び他の戦場で陣没或いは復員後物故された英霊(例えば特攻隊の林昭光氏等)や戦後占領に乗りこんで来た武装集団から“日本に献身尽忠した”とみなされて報復惨殺された6名の原住民最高リーダーたち※も一緒に奉祀してその功績を顕彰・感謝すると共に、より多くの日本人・台湾人に、“昔、蕃人と呼ばれ見下げられた”先住民の同胞たちに対して、より正しき認識と温かき交流を願うものです。おそらく私と同じ思いの者も決して少なくないと信じます。その期成に皆様と一緒に力を尽くしたい。アーメン!
今次大戦に従軍した
生き残りの元日本兵(現99歳、沖縄在住)
楊 馥成(大井 満)
2020年8月15日
※1954年、蒋介石の武装集団に惨殺された原住民族群の最高リーダー6烈士:
林瑞昌氏(台北医専出身の名医、当時国会議員)、高一生氏(台南師範出身、阿里山頭目)、湯守仁氏(陸士出身の帝国軍人)、高沢照氏(嘉農出身の警察官)、同じく警察官の江清山氏、村長・方義仲氏。
▼楊馥成(よう・ふくせい)さんプロフィール
1922(大正11)年、日本統治時代の台南州・下営に生まれる。地元の公学校、高等科を経て、嘉義農林学校に進学。卒業後、台南州庁農林課で勤務。1943(昭和18)年に新聞広告で軍属の募集を知り志願。シンガポールに赴き「南方派遣軍野戦貨物廠」に配属される。敗戦後、台湾に戻り、日本への密航を企てるも、当時、国民党体制下で募集していた行政幹部の試験を受けて合格し、農林庁検験局肥料調査官として勤務した。1949年に辞職し、新聞記者となり、建国前の中国を取材。その後、再度の日本への密航を企てるも、失敗し、2年間、監獄に入れられた。その後、政治犯として火焼島に送られ、約7年、自由のない生活を強いられた。農学博士として農薬に頼らない技術を開発し、農業の発展に貢献。現在、日本国籍を有していることを確認するため日本で訴訟を起こしている。
素晴らしい文章、私達が知るべきご経験、内容でした。より多くの人々にご経験を知ってほしいです。
返信削除コメントいただきありがとうございます。楊さんの思いはより多くの日本人に知っていただきたいですね。
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