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3月, 2021の投稿を表示しています

91歳台湾人女性が受け取った75年越しの卒業証書〜考えたい「戦争」と「台湾」

はじめに  現在、台湾で生活する私は、台湾の「日本語世代」の聞き取り調査を続けています。主に日本統治時代の台湾における学校教育や生活、戦争体験などを文章や映像(YouTube)で記録しています。  日本語世代とは、1895(明治28)年から1945(昭和20)年に日本が敗戦を迎えるまで続いた日本統治時代に生まれ、日本語教育を受け、今も日常生活で日本語を多用あるいは常用している人々を指します。「日本人」として生まれ、日本のために戦争を戦い、今なお「日本人」としての誇りを抱き続ける日本語世代の人々は、私たち日本人にとっての「先輩」です。  したがって「先輩」が生きてきた時代の台湾の歴史は、日本人が学び、向き合うべき歴史でもあると考えます。しかし、私自身がそうであったように、残念ながら日本の学校教育では、半世紀にわたり日本と台湾が共有した日本統治時代の台湾の歴史を学ぶ機会はありません。  歴史的な関係の深さにとどまらず、今日の日本を取り巻く安全保障情勢を鑑みた時、力による現状変更を試みる中国という共通の脅威に直面し、「自由で開かれたインド太平洋」という国益をも共有する台湾とは更なる関係深化が急がれます。正式な外交関係を有しない台湾ですが、これまでの日台関係が民間レベルで力強く支えられてきたことは間違いなく、その中で、日本語世代の人々が果たしてきた役割は絶大です。今日の良好な日台関係の礎を構築し、絆を紡ぎ育んできた「先輩」の声に耳を傾け、しっかりとそのバトンを受け継ぐことが今を生きる日本人には求められています。  そこで、今回は、私自身が立ち会い、日台が共有してきた歴史を改めて実感した、一人の「先輩」の物語をご紹介します。  日本統治時代の台湾にあったミッションスクール・私立静修高等女学校。かつてここで学んだ頼トミコさんは、1945(昭和20)年3月、同学の卒業式に出席しましたが、空襲によって式は開始早々に中断され、卒業証書を受け取ることもないまま日本の敗戦を迎えました。  「幻の卒業式」から75年の月日が経過した2020年7月13日、トミコさんは再びかつての学び舎である現在の天主教静修中学に足を運び、75年越しの卒業証書授与式に臨みました。 「日本人」としての頼トミコさんの歩み  頼トミコさんは、1929(昭和4)年、広島県呉市で台湾人の父親と日本人の母親の間に生まれ、6

日本統治時代の台湾の教科書を使う唯一無二の日本語クラス

 台北市立図書館景新分館の一室では、毎週土曜日にユニークな日本語クラスが開かれている。日本統治時代の台湾の公学校(漢人系住民である本島人子弟が通う初等教育機関)で実際に使用されていた「国語読本」を教材として用いているのだ。  国語読本は、日本本土で使用されていた文部省発行のものとは異なり、台湾総督府によって編纂された国語教科書で、内地や台湾の事情、科学知識、神話や道徳、更には皇民化に資する物語など多様な題材を扱っている。  この日本語クラスを開講しているのは御年90歳の林廷彰さん。日本統治時代の台湾で生まれ、日本語教育を受けたいわゆる「日本語世代」である。台湾或いは世界を見渡してもおそらく最高齢の現役日本語教師ではないだろうか。  林さんが日本語教師として教壇に立ったのは2017年からで、以来、毎週土曜日に二時間、授業を行っている。毎回、老若男女を問わず約20名の生徒が受講し、国語読本の物語を一人一人音読したり、文章の意味を林さんが台湾語で解説したり、漢字の読み書きの問題を解いたりする。  林さんは1931(昭和6)年、現在、観光地としても人気を博している九份で生まれ、地元の九分公学校で学んだ。日本語クラスで使用している教材の国語読本は、当時、林さんが公学校で実際に使用していたものである。  この国語読本の教科書は林さんにとって特別な思い入れがある。1945(昭和20)年の日本の敗戦に伴い台湾における日本の統治が終了すると、台湾は新たな外来政権である中華民国・国民党政府によって管轄された。その後、台湾では官吏による汚職や腐敗、物資欠乏や悪性インフレ、失業者増加による治安の悪化など社会は混乱に陥った。1947年には二二八事件が勃発し、多くの命が奪われ、以降、38年にわたる戒厳令の下、台湾人は苦難の日々を強いられた。  二二八事件発生時、台北市内で米と炭を販売して生計を立てていた林さんは、すぐに身の危険を感じ、実家の九份へと逃げ帰った。その後、しばらくして、九份でも三名の地元有力者が国民党によって拘束され、銃刺された。林さんは銃殺現場を目撃し、徐々に広まっていた「若い男性が狙われる」という噂に恐れ慄き、母親からの進言もあって実家を離れて数カ月にわたり身を隠した。その際、母親は国民党に見つかったら危ないと考え、日本統治時代の写真や下駄、和服、そして林さんが学校で使用してい

日本統治時代の台湾の「小学校」で学んだ蘇愛子さんの思い出

日本統治時代の1932(昭和7)年に台湾・台北でお生まれになった蘇愛子さん。 教育者であった愛子さんのお父様は子供達が「日本文化に溶け込むように」日本人子弟が通う教育機関へ通わせる教育方針でした。そのため、幼少期には西本願寺附属の幼稚園に通い、内地人(日本人)の子供たちと時間を過ごしました。 その後、台北建成小学校に進学。クラスは男女共学クラスで、女子生徒の中で本島人(台湾人)は愛子さんお一人だけでした。 建成小学校では、教室前の廊下に下駄箱があり、靴下で入室していたそうです。とても清潔で綺麗だったことを覚えている教室は、毎日おからの様なものを使って床などを磨き、常に丹念に掃除が行われていたといいます。 低学年の担任の先生は女性の西山先生、高学年は恵比寿先生という男性の先生でした。恵比寿先生は水泳が得意で、体操の時間はいつもプールで水泳の授業。クラス対抗の水泳大会では毎回、愛子さんのクラスが一番でした。昼食はお弁当を持参し、愛子さんは日本式のお弁当が好きで、自ら市場で数の子やたいの子、かまぼこなどの食材を買っていたそうです。 女学校へ進学する際、お父様は台北第三高等女学校への進学を決めました。クラスで一番二番の成績を争っていた愛子さんだったため、恵比寿先生は家庭訪問し、「せめて二女は受かるから」と説得したそうです。しかし、お父様は愛子さんに小学校で級長など役員をやってほしかったのですが、当時、どれだけ成績が優秀であっても、本島人が級長の座に就くことはできないという「現実」に失望し、「台湾人は台湾人の学校に通った方が良い」という考えになっていたそうです。 結局、恵比寿先生の説得は受け入れられませんでした。クラスで先生が学生に志願書を配る際、愛子さんは台北第三高等女学校の受験者として呼ばれました。周りの友人はこの時、大変驚いていたそうで、初めて愛子さんが本島人であることを理解したそうです。 戦争の影響が台湾にも徐々に近づいていた小学校時代でしたが、「とても楽しい印象だった」ことを今でも覚えているそうです。 建成小学校は2019年に 創立100周年 を迎え、かつてここで学んだ人々の「同窓会」や当時の教室などが今も残る建成國民中學への「母校訪問」が行われました。日本からも日本時代に台湾で生まれ、戦後に引き揚げを余儀なくされた方々が「里帰り」を果たしました。 愛子さんもこの同

特攻兵器「桜花」の生産に携わった台湾少年工の物語

 大東亜戦争末期、日本の絶対国防圏が崩れ、戦局が極めて厳しかった頃、日本海軍は極秘裏に特攻兵器「桜花」の開発に着手した。「人間爆弾」とも称された桜花は、1,200キロの爆弾を搭載し、母機に吊るされて目標まで迫り、分離された後に搭乗員が誘導して体当たりすることを目的とした。搭乗員の死を前提にした設計であり、米軍はその残酷さと恐ろしさから「BAKA(馬鹿)」と名付けたほどである。  6月19日、私は台北市内の喫茶店で、台湾少年工として桜花の生産に従事していた東俊賢さんにお話をうかがった。1930(昭和5)年、日本統治下の台南で生まれた東さんはクリスチャンの家庭で、一人息子として大切に育てられた。幼少期から珍しい物事にはすぐに関心を持ち、知的好奇心が旺盛だった東さん。台南の末広公学校の学生時代には、地元の映画館「宮古座」で鑑賞した映画「燃ゆる大空」がきっかけで飛行機への憧れを強く持つようになった。当時、2階の畳の席からスクリーンに映し出される飛行機を見て、「鉄で作ったものがどうして飛ぶことができるのだろう」という疑問を抱き、同時に「これからは飛行機の時代だ」と胸を躍らせたという。しかし、東さんの父親は一人息子の身を案じて飛行士になったり、工業の道に進んだりすることには猛反対していた。  飛行機への憧れを捨てきれなかった東さんだったが、転機は台南商業学校に在学中の1944(昭和19)年にやってくる。この頃、日本は航空戦での敗北が続き、搭乗員の不足と航空機の増産が急がれていた。人手不足を解消するため台湾人少年に対して、航空兵学校や海軍戦闘機を生産する「高座海軍工廠(空C廠)」への志願を呼びかけていたのである。  親の猛反対を押し切って台湾少年工に志願した東さんは、1944(昭和19)年5月に日本に上陸し、神奈川県追浜にあった海軍航空技術廠(空技廠)に配属された。ここは1932(昭和7)年、海軍航空機の設計や実験、また航空機およびその材料の研究や調査などを行う目的で山本五十六によって設置された。国内最先端の技術と英知が結集していた空技廠で、東さんは飛行機部第四工場ガス熔接組に所属した。すでに日本人熟練工らは戦場に駆り出されており、東さんを含む台湾人少年工と数名の日本人がそこで作業していたほか、学徒動員された千葉高等女学校の女学生らも汗を流した。熔接するための部品が入った木箱を運