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特攻兵器「桜花」の生産に携わった台湾少年工の物語

 大東亜戦争末期、日本の絶対国防圏が崩れ、戦局が極めて厳しかった頃、日本海軍は極秘裏に特攻兵器「桜花」の開発に着手した。「人間爆弾」とも称された桜花は、1,200キロの爆弾を搭載し、母機に吊るされて目標まで迫り、分離された後に搭乗員が誘導して体当たりすることを目的とした。搭乗員の死を前提にした設計であり、米軍はその残酷さと恐ろしさから「BAKA(馬鹿)」と名付けたほどである。

 6月19日、私は台北市内の喫茶店で、台湾少年工として桜花の生産に従事していた東俊賢さんにお話をうかがった。1930(昭和5)年、日本統治下の台南で生まれた東さんはクリスチャンの家庭で、一人息子として大切に育てられた。幼少期から珍しい物事にはすぐに関心を持ち、知的好奇心が旺盛だった東さん。台南の末広公学校の学生時代には、地元の映画館「宮古座」で鑑賞した映画「燃ゆる大空」がきっかけで飛行機への憧れを強く持つようになった。当時、2階の畳の席からスクリーンに映し出される飛行機を見て、「鉄で作ったものがどうして飛ぶことができるのだろう」という疑問を抱き、同時に「これからは飛行機の時代だ」と胸を躍らせたという。しかし、東さんの父親は一人息子の身を案じて飛行士になったり、工業の道に進んだりすることには猛反対していた。

 飛行機への憧れを捨てきれなかった東さんだったが、転機は台南商業学校に在学中の1944(昭和19)年にやってくる。この頃、日本は航空戦での敗北が続き、搭乗員の不足と航空機の増産が急がれていた。人手不足を解消するため台湾人少年に対して、航空兵学校や海軍戦闘機を生産する「高座海軍工廠(空C廠)」への志願を呼びかけていたのである。

 親の猛反対を押し切って台湾少年工に志願した東さんは、1944(昭和19)年5月に日本に上陸し、神奈川県追浜にあった海軍航空技術廠(空技廠)に配属された。ここは1932(昭和7)年、海軍航空機の設計や実験、また航空機およびその材料の研究や調査などを行う目的で山本五十六によって設置された。国内最先端の技術と英知が結集していた空技廠で、東さんは飛行機部第四工場ガス熔接組に所属した。すでに日本人熟練工らは戦場に駆り出されており、東さんを含む台湾人少年工と数名の日本人がそこで作業していたほか、学徒動員された千葉高等女学校の女学生らも汗を流した。熔接するための部品が入った木箱を運んでくる女学生らは、年少の東さんが遠い故郷を離れて日本に来ていることを知り、寂しいだろうと案じてか、黙って田舎の食べ物を置いていってくれたそうだ。言葉こそ交わしたことはなかったが嬉しかったという。

 技術訓練が終わると、特攻兵器「桜花」の熔接に取り掛かった。ただし、桜花は極秘裏に生産されていたため、自身が何の部品を熔接しているかはわからず、桜花の名前すらも知らされていなかった。運ばれてくる木箱の掛札には「MXY7」と記載されていた。

 ある日、東さんは組長に呼び出され、一類(極秘)工場と二類(秘密)工場に入ることができるバッジと「非常突破」と赤字で書かれた特別通行証を手渡された。熔接した部品を桜花試作機の組立工場に運ぶ極秘任務を託されたのである。完成した部品を届けるために何度も組立工場を往復しているうちに徐々に航空機の形に仕上がってくるのがわかったという。組立工場の工員も可愛がってくれ、ハシゴに登らせて搭乗席の中を見せてくれたこともあった。

 そして試作機が完成した後、天皇陛下の勅使と特攻隊員2名が空技廠を訪れたことがあった。東さんが戦後に聞いた話によると、この時、空技廠の職員は勅使に対し、桜花が「自殺兵器」とは言えず、搭乗員は助かると説明したらしい。しかし、この時、日の丸の鉢巻をし、薄い絹の茶色の特攻服と特攻靴を着用した特攻隊員が「敵、撃滅に行ってきます」との挨拶をし、東さんは初めて試作機が特攻機だと理解したという。

 桜花は量産が決定され、空技廠では実験用の1機を含む201機を生産。その後は海軍第一航空廠に引き継がれて敗戦までに約750機が生産された。しかし桜花輸送中の空母「信濃」が撃沈されたり、敵艦隊に接近する前に撃墜されたりと、十分な戦果を上げることはできず、多大な犠牲を出し、やはり「自殺兵器」となってしまった。

 そして、1945(昭和20)年8月15日、空技廠にて敗戦の知らせを聞く。連日、徹夜での熔接作業を余儀なくされていた東さんだったが、この日は午前11時に工場内のスピーカーから緊急通告が発せられ、作業を中断して大広場に集められた。正午になるとラジオから「君が代」に続いて玉音放送が流れた。放送が終わると、廠長の和田操中将が中央の司令台に上がり話し始めた。

「日本は負けた。負けたのは負けたのである」
「日本は科学で負けた。君たちは謙虚に技術を学び、日本の復興に貢献しなさい」

 この時、東さんはその言葉の意味を信じることはできず、なぜ日本が負けたのか理解できなかったという。同時に「科学で負けた」という和田中将の言葉によって、科学の重要性をしみじみ感じたと一語一語を噛み締めるよう語った。

 敗戦から半世紀以上経った2002年、東さんは桜花の設計者である故・三木忠直氏と神奈川県逗子にて面会している。三木氏は搭乗員の生還が見込めない桜花の構想に対し、その開発には最後まで反対を表明した。しかし最終的には軍の決定には逆らえず、不本意ながら桜花の設計を担ったといういきさつがある。東さんは2度、三木氏と面会しているが、いずれも三木氏は桜花に話が及ぶと口を閉ざし、その様子は「とにかく心苦しそうだった」。戦後は自責の念からキリスト教の洗礼を受け、毎週日曜日には鎌倉の教会に通った三木氏。東さんとの面会中、三木氏が桜花について、唯一言及したことがあったそうだ。それはアメリカのボーイングの技術に桜花の技術が用いられているということだった。その話をする三木氏の表情は技術者としての誇りに満ち溢れていたという。戦後、三木氏は戦争に関連する仕事はしないと決め、飛行機の技術を応用して新幹線やモノレールを開発し、戦後日本の復興に大いに貢献した。

 東さんは戦後、教員を経て、再び技術の世界で活躍した。退職後は自らワープロを打って自身の戦争体験や台湾の歴史に関する本を自費出版している。また、88歳になった今も日本の大学で講演したり、新しい本の製作にも取り組んだりしている。科学に憧れ、科学で負け、科学の道に生きた一人の台湾少年工の物語。東さんのお話から技術者としての苦悩と誇りを感じ取ることができた。
東俊賢さん
(一般財団法人自由アジア協会「権田猛資のフォルモサニュース」第7号、2018年6月22日)


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