スキップしてメイン コンテンツに移動

日本統治時代の台湾の教科書を使う唯一無二の日本語クラス

 台北市立図書館景新分館の一室では、毎週土曜日にユニークな日本語クラスが開かれている。日本統治時代の台湾の公学校(漢人系住民である本島人子弟が通う初等教育機関)で実際に使用されていた「国語読本」を教材として用いているのだ。

 国語読本は、日本本土で使用されていた文部省発行のものとは異なり、台湾総督府によって編纂された国語教科書で、内地や台湾の事情、科学知識、神話や道徳、更には皇民化に資する物語など多様な題材を扱っている。

 この日本語クラスを開講しているのは御年90歳の林廷彰さん。日本統治時代の台湾で生まれ、日本語教育を受けたいわゆる「日本語世代」である。台湾或いは世界を見渡してもおそらく最高齢の現役日本語教師ではないだろうか。

 林さんが日本語教師として教壇に立ったのは2017年からで、以来、毎週土曜日に二時間、授業を行っている。毎回、老若男女を問わず約20名の生徒が受講し、国語読本の物語を一人一人音読したり、文章の意味を林さんが台湾語で解説したり、漢字の読み書きの問題を解いたりする。

 林さんは1931(昭和6)年、現在、観光地としても人気を博している九份で生まれ、地元の九分公学校で学んだ。日本語クラスで使用している教材の国語読本は、当時、林さんが公学校で実際に使用していたものである。

 この国語読本の教科書は林さんにとって特別な思い入れがある。1945(昭和20)年の日本の敗戦に伴い台湾における日本の統治が終了すると、台湾は新たな外来政権である中華民国・国民党政府によって管轄された。その後、台湾では官吏による汚職や腐敗、物資欠乏や悪性インフレ、失業者増加による治安の悪化など社会は混乱に陥った。1947年には二二八事件が勃発し、多くの命が奪われ、以降、38年にわたる戒厳令の下、台湾人は苦難の日々を強いられた。

 二二八事件発生時、台北市内で米と炭を販売して生計を立てていた林さんは、すぐに身の危険を感じ、実家の九份へと逃げ帰った。その後、しばらくして、九份でも三名の地元有力者が国民党によって拘束され、銃刺された。林さんは銃殺現場を目撃し、徐々に広まっていた「若い男性が狙われる」という噂に恐れ慄き、母親からの進言もあって実家を離れて数カ月にわたり身を隠した。その際、母親は国民党に見つかったら危ないと考え、日本統治時代の写真や下駄、和服、そして林さんが学校で使用していた教科書を焼却処分しようとした。林さんは母親と押し問答になったが、数冊の国語読本と修身の教科書を手にし、家の近くのお墓の中に隠した。母親から「危ないからいけない」と何度も注意されたが、その制止を振り切って夜中にこっそり隠したという。

 その後、台湾人は自由を求めて戦い、民主主義を勝ち取るには長い年月を有したが、林さんが命に代えても守ろうとした教科書は再びお墓から取り出すことができるようになり、大切に保管していたのである。そして、2017年に知人の誘いで日本語教師を引き受けた際、ふさわしい教材を考えたところ、自身が日本統治時代に日本語を学んだ教科書である国語読本しかないと迷わず採用した。

 林さんは今に至るまで受講生から授業料は一度も受け取ったことがない。それは日本統治時代の恩師の学問に向き合う姿勢に感銘したからだという。林さんは公学校時代、土曜日の午後など授業がない時間には恩師の宿舎に行き、進学のために勉強を教わった。しかし、恩師は生徒達からお金を受け取ることは一切なかった。代わりに生徒達は農作業や家の掃除などを手伝った。一方、戦後、台湾に渡ってきた中国人の教師は補習として授業料をとっていたことがあり、林さんは「学問を売るなんてとんでもない」と日本人の先生との違いに失望したという。

 「日本語だけでなく、日本精神も教えたい」と話す林さんの授業は、毎回、起立・礼で始まり、起立・礼で終わる。授業中の私語はもちろん、スマートフォンの使用も許さない。無料講座にしては厳しいように思うが、そんな林さんを受講生達は慕っており、一年間、無遅刻無欠席の人も少なくない。

 日本人として生まれ、日本語を学び、恩師から「日本精神」を教わった林さん。今度は林さんが先生となり、日本語にとどまらず、日本統治時代に教わった精神の伝承を使命としている。そんな唯一無二の日本語クラスは、同じ台湾の土地に生まれた先輩から後輩へ「台湾精神」が受け継がれていく現場でもあった。

国語読本を用いた日本語クラスを開く林廷彰さん。

(一般財団法人自由アジア協会「権田猛資のフォルモサニュース」第28号、2021年3月16日)

コメント

このブログの人気の投稿

あの時、台湾は日本だった(作者:生き残りの元日本兵 楊馥成)

1922(大正11)年生まれの台湾出身の元日本兵・楊馥成(よう・ふくせい)さんにエッセイ「あの時、台湾は日本だった」をご寄稿いただきました。忘れられた台湾出身元日本兵の思いを多くの日本人に知っていただきたいと思います。 楊馥成さん あの時、台湾は日本だった     あの時、台湾は日本だった。あの時、台湾住民も日本国民であった。国家存亡を賭けた太平洋戦争たけなわのあの時、台湾の若者もこぞって勇躍戦場に馳せ参じ、数多護国の生贄と散華していった。  太平洋戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、5万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医療員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで大日本帝国の為に血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士たちは、生きて祖国に帰ってきても、占領に乗りこんで来た敵側統治者からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖圧政下で、日本に加担したかどに問われて残虐な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった(私も更なる拷問の挙句、罪の判決もなしに7年間の牢獄生活を強いられた)。 況や、陣没された英霊(私も終戦の翌々年親友の遺骨を首にぶら下げて戦地から故郷に帰った)に、誰も関心を寄せる者はありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府は、なぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?  戦後まもなく沖縄本島南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はつい2016年まで見られませんでした。あの時、数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及び支那大陸の各地で、日本国民として皆様と生死をともにして戦い、赫赫たる手柄を立て、又戦場の露と消え去った無数の英霊達も「大日本帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していったはずだったのに。  これらの英霊達が今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に曽ての戦友たちとともに奉祀して慰拝致したいと、数年来、地元

台湾出身「元日本人」国籍復帰確認裁判の判決下る〜取材者として見つめてきた先輩達「最後の戦い」

1月11日、東京地方裁判所で一つの判決が下された。日本統治下の台湾に「日本人」として生まれ、今なお「日本人」としての矜持を抱き続ける3名の台湾出身「元日本人」が、戦後に本人の意思に反して日本国籍を剥奪されたことは不当だとし、現在も日本国籍を有していることの確認を求めていた裁判である。 原告は、1922年生まれの 楊馥成(ようふくせい)さん 、1927年生まれの 林余立(りんよりつ)さん 、1933年生まれの許華杞(きょかき)さんで、2019年10月4日、3名は止むに止まれぬ思いで訪日し、大阪地方裁判所にて提訴に踏み切った。未曾有のコロナ禍で裁判の進捗は滞り、その後、東京地方裁判所に移され、2年以上を経て今回の「敗訴」に至った。 原告の3名。左から、楊馥成さん、許華杞さん、林余立さん 訴えは退けられた 原告が裁判で求めていたことはただ一つ。「日本国籍を有していることを確認する」。それ以外に賠償や謝罪などを要求するものではなかった。求めているのは「国籍」という人権であり、尊厳であり、これまで「日本人」として生き抜いてきた台湾の人々の生き様そのものの確認である。 求めたことはただ一つ... 裁判という手段に踏み切った原告らの思いや決断を理解するには、台湾の歴史、そしてその土地で今日まで生き抜いてきた人々の境遇を知る必要がある。 1895年から1945年までの50年間、台湾は紛れもなく「日本」だった。日清戦争で勝利した日本は、清国との間で下関条約を締結し、台湾は日本に永久割譲された。日本はその後、台湾を「新領土」として統治してきたわけである。この50年の間に台湾で生まれた原告ら台湾出身者は「日本人」として生まれ、日本語を母語として教育を受けてきた。 また原告らと同世代の台湾出身者は、先の大戦も経験している。「日本人」として国のために身命を賭して戦い、日本の勝利を信じていた。厚生労働省社会・援護局によると、台湾出身の軍人・軍属は20万7183人で、その内3万306人が戦没している。 実際、原告の楊馥成さんは1943年に軍属に志願し、シンガポールにて南方方面の部隊に対する補給任務などに従事した。また林余立さんも海軍工員として高雄の海軍工廠で勤務、海軍整備兵として空襲の被害も少なくなかった台湾の地で戦禍を生き抜いた。 楊馥成さん 許華杞さんは軍歴こそないが、12歳まで「日本人」で

台湾で神様となった日本人を祀る小さな祠〜「もう一回さん」として愛された日本人巡査・小林三武郎

台湾北東部に位置する宜蘭県の冬山郷太和村には日本人を神様としてお祀りしている小さな祠がある。 日本人巡査・小林三武郎を祀る祠 現地では「福徳正神(土地公)」という元々、中国の民間信仰に起源を有し、台湾においても広く信仰を集める神様として位置付けられている。そして、ここでは小林三武郎(こばやし・さぶろう)という日本人がその神様になっている。 残念ながら、名古屋出身と伝えられている小林氏の戸籍謄本は見つかっておらず、遺族も特定できていないため、詳細はわかっていないが、地元の古老の話として小林氏がどのような人物か一部記録が存在している。 古老の証言をまとめた記録によると、小林氏は日本統治時代、現地で森林保護などを担う巡査として赴任した。人情味に溢れた温かい人物で、地元民に厚く慕われていたという。 小林氏の人柄が想像できる逸話が今も伝えられている。 質素で慎ましい生活を送っていた小林氏は、地元民には食糧を浪費するばかりの雄の家畜の飼育を推奨しなかった。自らが率先して種付け用の雄のニワトリやアヒル、豚を飼育した。そして、地元民の飼育する家畜が種付けを必要とした際には、自身が飼育する家畜を無料で何度も提供したという。 小林氏は家畜を専門としないため、うまくいかないことも多々あったが、「もう一回」と言って諦めずに試みた。そして、次第に現地では、小林氏のことを「もう一回さん」と呼ぶようになったそうだ。 小林氏は現地で結婚し、80歳過ぎで亡くなった。1944(昭和19)年秋に現地で行われた送別式はとても盛大で、地元民は悲しみに暮れたそうである。 戦後、日本が台湾から引き揚げた後も地元の人々から愛され続けた小林氏は、地元民によって祠が建てられ、いつまでも忘れ去られなかった。そして、1969年には現地の黄玉生氏の呼びかけで建設費を集め、再建された。 さらに2001年になると、小林氏は土地の守り神である福徳正神になったと唱えられるようになり、ついに2004年、現地の土地公廟と永福宮三山国王廟にお伺いを立てた結果、小林氏は福徳正神として祀られるようになった。 父が祠の建設者で、現在、祠の隣で茶業を営む黄添桂さんによると、神様となった小林福徳正神の存在は地元民に広く知られ、今も信仰を集めているという。黄さん自身もたびたび祠にお供え物をしており、土地公の誕生日にはお祭りも行っているそうだ。また祠