スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2月, 2021の投稿を表示しています

特攻隊の街・宜蘭を訪ねて

 台湾の北東部に位置する宜蘭。四方を山と海に囲まれ、田園風景が広がる風光明媚な土地だが、かつてこの場所が若き特攻隊員の出撃地であったことはあまり知られていない。7月9日、私は特攻隊が出撃した飛行場の建設に従事した経験を持つ李英茂さんにお話をうかがうため、宜蘭県羅東の自宅を訪ねた。  1929(昭和4)年に宜蘭で生まれた李さんは、旧制宜蘭中学校(現・国立宜蘭高級中学)2年生だった1943(昭和18)年、勤労奉仕として飛行場の建設に駆り出された。宜蘭には南飛行場、北飛行場、西飛行場の3つがあったが、李さんら宜蘭中学の学生は、南飛行場の建設を担っていた。  建設は急ピッチで進められたが、重機も不足していたため人海作戦だった。宜蘭だけでなく台北や新竹からも学生や青年団、民衆が集められた。その数は正確にはわからないものの、5000人ほどの人が従事していたのではないかと李さんは人数の多さを強調した。作業は連日、朝から始まり、もっこを担ぎ、水田を土で埋めて平地にする仕事などをしていた。そこでは日本人と台湾人は一致団結し、差別や区別は一切なかったという。李さん自身も「日本人」として、国のため、天皇陛下のためにという思いで「猪突猛進」に汗を流していた。  半年ほどで飛行場が完成し、1945年4月から南飛行場は神風特別攻撃隊の飛行場として使用されることになった。当時、宜蘭中学3年生だった李さんは学徒兵として召集され、軍事訓練に勤しむ毎日で、特攻隊機を目撃したことはない。また飛行場周辺も厳重に警備されており、一般の人々が特攻隊の存在を知る術はなかった。しかし、李さんの中学の同級生は、防空壕で特攻隊機と交信している通信兵から、突然、モールス信号の交信が途絶えたという話を聞いたりしていた。また別の同級生の実家は時計屋を営んでおり、ある日、特攻隊員が航空時計の修理にやって来たことがあったが、何日経っても修理の終わった時計を受け取りに来ることはなかったという。こういった話を同級生から聞いていた李さん自身も薄々、特攻隊の存在をわかっていた。  現在、南飛行場の跡地には当時の八角形の監視塔が一つ残るのみだが、かつて滑走路のあった場所に立ってみると、正面には亀山島の島影がうっすらと望める。特攻隊員たちはこの亀山島を飛行目標として飛び立っていった。ちょうど亀山島から沖縄海域の延長線上には知覧の特攻隊基地

歴史の目撃者が語る二二八事件

 戦後の台湾において、今日まで深い傷跡を残している二二八事件。1947年2月28日、新聞記者として始めから終わりまで事件を目撃した人物がいる。後に自身も拘束され「死刑囚」として無実の罪を着せられた蕭錦文さんだ。私は6月30日、蕭さんが暮らす桃園市の介護施設を訪ねた。  戦後、叔父で台北市内の新聞社「大明報」の社長であった鄧進益氏に誘われ、記者の道に進んだ蕭さんは記者となって間もなくして、二二八事件に遭遇する。   二二八事件は、前日の1947年2月27日に発生した事件に端を発する。その日の夕刻、台北市内で台湾人女性が闇タバコを販売していた。当時、タバコは専売制が採用されていたため、原則として専売局以外の販売は禁止されていた。専売局の取締官はその女性からタバコを取り上げ、所持金も奪った上で暴行を加えた。この様子を見ていた民衆は、日頃の統治者による賄賂や汚職、横暴な振る舞いに対する不満が爆発し、取締官らに反旗を翻した。この時、取締官の一人が民衆に向けて発砲し、その流れ弾を受けて一人の台湾人青年が即死するという悲劇が発生した。このことにますます憤慨した民衆は翌28日に抗議活動を展開し、二二八事件、そしてその後のさらなる悲劇である白色テロへとつながっていく。  新聞社2階の当直室で生活していた蕭さんは、27日夜にラジオを通して事件があったことを知る。この日は事件に関する放送が一晩中続き、それを聴いていたため明け方まで眠りにつくことはできなかった。そして28日の朝8時頃に太鼓の音で目覚め、2階から20名ほどの民衆による抗議デモの隊列を目にした。  急ぎ身支度をして現場に駆けつけた蕭さんはデモ隊の最前列で取材をはじめた。太鼓を載せたリヤカーの横で、リーダーと思われる人物が台湾語で台北市民にデモへの参加を呼びかけていた。その声を聞きつけた市民やラジオ放送で抗議デモを知った人々が次から次へ隊列に加わり、抗議デモは瞬く間に「烏合の衆」へと膨れ上がった。参加者は男性が多く、20代から30代の若者が中心で、彼らは皆、でたらめな統治に対する批判や不満を叫んでいた。  行進を続けるデモ隊は、12時頃に専売局台北分局に到着した。しかしすでに専売局の職員は逃げ出しており、代わりに警備総司令部副官処の王民寧処長がベランダに姿を現した。最前列で話を聞いた蕭さんによると、王処長は「ここには誰もおらず、

愛と正義感に生きた関口延男〜台湾原住民から慕われた日本軍人〜

 かつて、ある台湾原住民族の部落で人々から慕われていた一人の日本軍人がいた。名前は関口延男。  近衛師団の陸軍中尉であった関口は、1930(昭和5)年10月に発生した高砂族(台湾原住民族)による抗日武装蜂起事件である霧社事件の調査団一員として台湾に渡っている。この調査団の主要任務は事件の真相解明であったが、混乱を収拾させ、すべての高砂族を帰順させることも使命としていた。調査団の人員はいずれも近衛師団の中から選定された軍人であったが、関口をはじめとした多くは、軍人としてではなく警察官として任務にあたっていたという。  関口が配属されたのは天狗警察官吏駐在所であった。日本統治時代には「次高山」の名で知られ、台湾で2番目に標高の高い雪山山脈(標高3,886メートル)の最も深い場所にある天狗部落に位置していた。関口は警察官の職務をこなしながら、高砂族に対する教育にも力を入れて取り組んだという。天狗部落の頭目の息子であるタイヤル族の故・柯正信氏の著書『高砂王國』(2002)によれば、関口が教育にも取り組んでいたのは「常に一種の崇高な理想を抱いており、ある種の高尚な使命感を持っていた」からであるとしている。  そんな使命感に燃える関口のことを、部落の人々は「関口先生」と呼んで慕っていたそうだ。また関口は部落の頭目家族とも親しく付き合い、日本酒や甘酒を酌み交わして親交を深めていた。こうして信頼関係を築いた結果、長年、日本に対する好戦姿勢を貫いていた天狗部落は日本人に服従することを決定した。  関口は与えられた職務を誠実に全うするだけにとどまらず、タイヤル語を習得して部落の人々と積極的に交流し、住人の気持ちや文化の理解に努めたのである。前述の柯氏は「心が穏やかで、平和を愛する偉大な人物は関口先生の他にはいない」と著書の中で振り返っている。  13年にもわたって天狗部落で過ごした関口は、その後、出世の話もあったが断り、一時帰国。そして未婚であった妻を連れて天狗部落を再訪し、そこで結婚式を挙げた。式には部落中の人々が参加し、伝統的なタイヤル族の歌や踊りで新婚夫妻を楽しませ、数日にわたって盛り上がったという。  しかし、1939(昭和14)年、関口は軍の召集で天狗部落を離れることになる。見送りには部落のすべての人々が駆けつけ、関口の教え子達は『愛国行進曲』などの軍歌を合唱したそうだ。  

宜蘭の恩人、紀野一義という「侍」

 「紀野一義少尉は宜蘭の恩人です」。そう語るのは宜蘭の郷土史研究家である李英茂さんだ。在家仏教団体真如会主幹を務め、日本では仏教学者として知られている紀野一義氏だが、先の大戦末期には陸軍工兵少尉として宜蘭に駐屯した経験がある。  1922(大正11)年に山口県萩市で生まれた紀野氏は、東京帝国大学2年生だった1943(昭和18)年、学徒兵として召集された。その後、工兵将校となり、1945(昭和20)年1月、激戦地であるレイテ戦線行きの輸送船団に乗船した。しかし、その途中、輸送船団は敵の攻撃に遭い、紀野氏が乗船したサマラン丸を除く輸送船や護衛艦、駆逐艦はいずれも海の藻屑と消えてしまった。結局、サマラン丸は進路を台湾に変更し、敵の潜水艦による追撃から逃れて基隆港にたどり着いた。  台湾に上陸した紀野氏は、奇しくも父母の郷里である金沢の第九師団武部隊工兵連隊に配属された。そして宜蘭の特攻基地近くにあった台湾人集落の中心地に駐屯した。  当時、宜蘭も空襲による被害が甚大で、莫大な数の不発弾が人々を恐怖に陥れていた。その様子について、「台湾人の農民の庭といわず、畑といわず、田圃といわず、座敷の中にまで転がっていて、民心の動揺はその極に達していた」と紀野氏は振り返っている。  この時、日本軍将兵は不発弾には触れてはいけないという布告が出ていたという。しかし紀野氏は怯え苦しむ農民らを見かねて、こっそりと不発弾処理をはじめた。そして「不発弾処理の名人」として徐々に知られるようになると、紀野氏は農民らにとって頼みの綱となっていった。紀野氏は不発弾の存在を聞きつけると、スパナ1本を手に現場へ駆けつけ、たった一人で処理した。不発弾は250キロから500キロ、さらには1トンの大型爆弾も含み、その作業が常に死と隣り合わせであったことは推して知るべし。終戦までに処理した数は1752発分に及んだという。  終戦を迎え、国民党政府軍の捕虜となった紀野氏は、1946(昭和21)年3月に解放され、帰国した。しかし両親や親族は皆、広島に投下された原爆によって犠牲となり、「孤独貧寒の身」となった。そして戦争によって何もかもを失った紀野氏は、戦後は仏教伝道者の道を歩んでいくことになった。  2013(平成25)年12月28日に鬼籍に入った紀野氏だが、生前、自身がかつて駐屯した宜蘭を再訪している。その際に案内役

「里港藍家」の栄枯盛衰と激動の台湾史

 台湾の名門一族「里港藍家」。300年近い歴史を有する藍家は、かつて台湾南部の屏東一帯で影響力を誇った。日本統治時代には日本と密接な関係を築いており、同家の藍高川は日本の台湾統治に貢献して台湾総督府評議会議員に任命され、天皇陛下から勲章も授与された。息子の藍家精もまた、親日の汪精衛政権樹立を工作した特務機関として知られる「影佐機関(梅機関)」で勤務経験があり、汪政権の少将にも就任している。そんな「華麗なる一族」に生まれた藍昭光氏は、その家柄ゆえ、波乱万丈な人生を余儀なくされた。  藍昭光氏は1930(昭和5)年、京都の北白川で生まれた。3年ほど京都で生活したが、父の家精が京都帝国大学大学院を退学したことを契機に、台湾南部の屏東に居を移した。当時、藍家の邸宅があった屏東には、台湾製糖株式会社が本社を構えていたほか、陸軍第8飛行師団の飛行場があり、比較的、内地人(日本人)が多く暮らしていた。そのため昭光氏は幼少期から日本人コミュニティの中で育った。  屏東の小学校に進学した昭光氏だったが、父の上海赴任に伴い、上海の北部第一小学校に転校、さらに祖父の高川が逝去すると再び台湾に戻り、今度は台北の建成国民学校に転校した。卒業後は台北第一中学校に次ぐ名門校だった台北第三中学校に進学したが、大東亜戦争の戦況悪化で、2年生に進級した頃には勉強どころではなかった。1945(昭和20)年4月には学徒兵として召集され、日本の勝利を確信して訓練に励む毎日を送った。  裕福な家庭で育ち、日本人との交流も多かった昭光氏は、間違いなく他の多くの本島人(台湾人)とは全く異なる日本統治下の台湾を生きてきた。しかしそれは一方で、戦後の国民党政権下の台湾では苦しい立場を強いられることを意味した。実際、国民党政府が台湾を接収してからしばらく経った頃、父に逮捕状が出された。「敵国」であった日本との関係の近さが理由だったと考えられる。1949年、昭光氏は父と兄とともに台湾を脱出し、日本へ亡命を果たす。購入した漁船に乗り14日間の命懸けの航海だった。日本では、父は台湾独立運動に奔走し、昭光氏は京都大学法学部に進学した。卒業後は東京の貿易会社に就職し、結局、再び祖国・台湾の土を踏むには東京オリンピック直前の1963年まで待たなければならなかった。  藍家の栄枯盛衰は、まさに激動の台湾史そのものである。そんな名家の

蒋介石を「神様」として祀る蔣公感恩堂〜中華民国秘史と台湾現代史の交錯を覗く

 台湾南部・高雄に位置する旗津半島には、初代中華民国総統を務めた蒋介石を「神様」として祀るお堂がある。蔣公感恩堂と称すこのお堂は、蒋介石が逝去した1975年に創建の起源を有する。お堂に入ると、正面に観音菩薩、正面左手に道教に由来する三官大帝、そして正面右手に蒋介石の「神像」が配置されている。  戦後、国共内戦に敗れて台湾へ移り、二二八事件以降、戒厳令下の台湾で台湾人の自由を奪い、虐殺の限りを尽くした一人の人間が何故、神格化されているのだろうか。そこには戦後の「中華民国」秘史とも言える大陳島住民の台湾移住が関係していた。  現在、中華人民共和国浙江省の管轄下にある大陳島は、一時期、中華民国の版図にあった。1949年、中華民国・国民党政府は国共内戦で敗北を喫したが、その後も中国大陸の一部地域で共産党との戦闘継続を試みた。大陳島も1951年より「大陸反攻」をうかがう拠点となったが、人民解放軍による侵攻は止まらず、1955年1月18日、大陳島の防衛ラインであった一江島が陥落。その結果、1955年2月8日より、大陳島住民の台湾への「撤退」作戦が展開された。金剛計画と名付けられた作戦は、蒋介石の長子である蒋経国が指揮し、自らも約1万8,000人の大陳島住民とともに米国の第七艦隊の護衛の下、渡台している。蒋経国が自ら指揮したことは共産党の攻撃から生活を脅かされていた大陳島住民の不安を払拭するには十分であったと想像される。そして台湾への上陸を果たした大陳島住民は、中華民国・国民党政府によって台湾各地に移住先が割り振られ、住宅をはじめ、生活が保障された。  蔣公感恩堂が建つ旗津半島の實踐新村は大陳島住民の移住先の一つであった。現在も村内を歩いていると中国語でも台湾語でもない聞き慣れない言葉を耳にすることがある。実際に1955年に大陳島から渡って来た人々が今も暮らしているのだ。  蔣公感恩堂は同村に移住した大陳島住民によって建立された。元々は1975年に蒋介石が逝去した際、村民によって遺影が安置された簡易的な霊堂であったが、その後、村民の周普法氏らが発起人となり、未来永劫、蒋介石を追悼できるようにするために蔣公感恩堂は現在の姿へと整備されていった。  現在、蔣公感恩堂を管理する総幹事の林春生・周金鳳夫妻もまた、幼少期に移住した大陳島出身者であり、「お告げ」によってお堂の管理を任せられる