かつて、ある台湾原住民族の部落で人々から慕われていた一人の日本軍人がいた。名前は関口延男。
近衛師団の陸軍中尉であった関口は、1930(昭和5)年10月に発生した高砂族(台湾原住民族)による抗日武装蜂起事件である霧社事件の調査団一員として台湾に渡っている。この調査団の主要任務は事件の真相解明であったが、混乱を収拾させ、すべての高砂族を帰順させることも使命としていた。調査団の人員はいずれも近衛師団の中から選定された軍人であったが、関口をはじめとした多くは、軍人としてではなく警察官として任務にあたっていたという。
関口が配属されたのは天狗警察官吏駐在所であった。日本統治時代には「次高山」の名で知られ、台湾で2番目に標高の高い雪山山脈(標高3,886メートル)の最も深い場所にある天狗部落に位置していた。関口は警察官の職務をこなしながら、高砂族に対する教育にも力を入れて取り組んだという。天狗部落の頭目の息子であるタイヤル族の故・柯正信氏の著書『高砂王國』(2002)によれば、関口が教育にも取り組んでいたのは「常に一種の崇高な理想を抱いており、ある種の高尚な使命感を持っていた」からであるとしている。
そんな使命感に燃える関口のことを、部落の人々は「関口先生」と呼んで慕っていたそうだ。また関口は部落の頭目家族とも親しく付き合い、日本酒や甘酒を酌み交わして親交を深めていた。こうして信頼関係を築いた結果、長年、日本に対する好戦姿勢を貫いていた天狗部落は日本人に服従することを決定した。
関口は与えられた職務を誠実に全うするだけにとどまらず、タイヤル語を習得して部落の人々と積極的に交流し、住人の気持ちや文化の理解に努めたのである。前述の柯氏は「心が穏やかで、平和を愛する偉大な人物は関口先生の他にはいない」と著書の中で振り返っている。
13年にもわたって天狗部落で過ごした関口は、その後、出世の話もあったが断り、一時帰国。そして未婚であった妻を連れて天狗部落を再訪し、そこで結婚式を挙げた。式には部落中の人々が参加し、伝統的なタイヤル族の歌や踊りで新婚夫妻を楽しませ、数日にわたって盛り上がったという。
しかし、1939(昭和14)年、関口は軍の召集で天狗部落を離れることになる。見送りには部落のすべての人々が駆けつけ、関口の教え子達は『愛国行進曲』などの軍歌を合唱したそうだ。
その後、関口は台南商業学校に嘱託として赴任し、軍事教練の教官を務めた。当時、関口の教え子であった東俊賢氏は「軍服を着て戦闘帽を被り、筋骨隆々とした姿だったが、軍人でありながら『軍人』らしくなかった」と関口の当時の印象を語った。軍事教練の時間には天狗部落での話をしてくれたり、嗜んでいたという詩吟を披露してくれたりした。
また、ある日、台南商業学校の東氏の先輩であった張燦坤氏(張燦鍙元台南市長の実兄)が台南一中の日本人学生と喧嘩し、怪我を負わせてしまったことがあった。普通であれば怪我を負わせた張氏を厳しく叱り、制裁するところだが、関口は決して怒らなかった。それどころか事件後の朝会で、関口は全校生徒の前で事件の経緯を説明し、「教えが行き届いていなかった。私が責任を負う」と語り、朝礼台の角に頭を3回叩きつけたそうだ。そして「お互い喧嘩してはいけない。仲良くしなさい」と優しく教え諭したという。
東氏はそんな関口の姿を通して、「伝統的日本人」の生き様や「日本精神」がなんたるかを学んだ。すなわち関口は軍人であるからといって決して威張ったり、人を怒ったりはせず、誰とでも分け隔てなく付き合い、愛と正義感に溢れた人物だった。
戦後も関口は天狗部落を訪れて柯氏らタイヤル族の人々との交流を続けた。また台南商業学校の教え子達はお金を出し合って台湾に関口を招待した。台湾で関わりを持ったすべての人々に慕われ続けたのである。かつてそんな日本軍人がいたことを書き留めておきたい。
(一般財団法人自由アジア協会「権田猛資のフォルモサニュース」第11号、2018年8月2日)
近衛師団の陸軍中尉であった関口は、1930(昭和5)年10月に発生した高砂族(台湾原住民族)による抗日武装蜂起事件である霧社事件の調査団一員として台湾に渡っている。この調査団の主要任務は事件の真相解明であったが、混乱を収拾させ、すべての高砂族を帰順させることも使命としていた。調査団の人員はいずれも近衛師団の中から選定された軍人であったが、関口をはじめとした多くは、軍人としてではなく警察官として任務にあたっていたという。
関口が配属されたのは天狗警察官吏駐在所であった。日本統治時代には「次高山」の名で知られ、台湾で2番目に標高の高い雪山山脈(標高3,886メートル)の最も深い場所にある天狗部落に位置していた。関口は警察官の職務をこなしながら、高砂族に対する教育にも力を入れて取り組んだという。天狗部落の頭目の息子であるタイヤル族の故・柯正信氏の著書『高砂王國』(2002)によれば、関口が教育にも取り組んでいたのは「常に一種の崇高な理想を抱いており、ある種の高尚な使命感を持っていた」からであるとしている。
そんな使命感に燃える関口のことを、部落の人々は「関口先生」と呼んで慕っていたそうだ。また関口は部落の頭目家族とも親しく付き合い、日本酒や甘酒を酌み交わして親交を深めていた。こうして信頼関係を築いた結果、長年、日本に対する好戦姿勢を貫いていた天狗部落は日本人に服従することを決定した。
関口は与えられた職務を誠実に全うするだけにとどまらず、タイヤル語を習得して部落の人々と積極的に交流し、住人の気持ちや文化の理解に努めたのである。前述の柯氏は「心が穏やかで、平和を愛する偉大な人物は関口先生の他にはいない」と著書の中で振り返っている。
13年にもわたって天狗部落で過ごした関口は、その後、出世の話もあったが断り、一時帰国。そして未婚であった妻を連れて天狗部落を再訪し、そこで結婚式を挙げた。式には部落中の人々が参加し、伝統的なタイヤル族の歌や踊りで新婚夫妻を楽しませ、数日にわたって盛り上がったという。
しかし、1939(昭和14)年、関口は軍の召集で天狗部落を離れることになる。見送りには部落のすべての人々が駆けつけ、関口の教え子達は『愛国行進曲』などの軍歌を合唱したそうだ。
その後、関口は台南商業学校に嘱託として赴任し、軍事教練の教官を務めた。当時、関口の教え子であった東俊賢氏は「軍服を着て戦闘帽を被り、筋骨隆々とした姿だったが、軍人でありながら『軍人』らしくなかった」と関口の当時の印象を語った。軍事教練の時間には天狗部落での話をしてくれたり、嗜んでいたという詩吟を披露してくれたりした。
また、ある日、台南商業学校の東氏の先輩であった張燦坤氏(張燦鍙元台南市長の実兄)が台南一中の日本人学生と喧嘩し、怪我を負わせてしまったことがあった。普通であれば怪我を負わせた張氏を厳しく叱り、制裁するところだが、関口は決して怒らなかった。それどころか事件後の朝会で、関口は全校生徒の前で事件の経緯を説明し、「教えが行き届いていなかった。私が責任を負う」と語り、朝礼台の角に頭を3回叩きつけたそうだ。そして「お互い喧嘩してはいけない。仲良くしなさい」と優しく教え諭したという。
東氏はそんな関口の姿を通して、「伝統的日本人」の生き様や「日本精神」がなんたるかを学んだ。すなわち関口は軍人であるからといって決して威張ったり、人を怒ったりはせず、誰とでも分け隔てなく付き合い、愛と正義感に溢れた人物だった。
戦後も関口は天狗部落を訪れて柯氏らタイヤル族の人々との交流を続けた。また台南商業学校の教え子達はお金を出し合って台湾に関口を招待した。台湾で関わりを持ったすべての人々に慕われ続けたのである。かつてそんな日本軍人がいたことを書き留めておきたい。
(一般財団法人自由アジア協会「権田猛資のフォルモサニュース」第11号、2018年8月2日)
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