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「里港藍家」の栄枯盛衰と激動の台湾史

 台湾の名門一族「里港藍家」。300年近い歴史を有する藍家は、かつて台湾南部の屏東一帯で影響力を誇った。日本統治時代には日本と密接な関係を築いており、同家の藍高川は日本の台湾統治に貢献して台湾総督府評議会議員に任命され、天皇陛下から勲章も授与された。息子の藍家精もまた、親日の汪精衛政権樹立を工作した特務機関として知られる「影佐機関(梅機関)」で勤務経験があり、汪政権の少将にも就任している。そんな「華麗なる一族」に生まれた藍昭光氏は、その家柄ゆえ、波乱万丈な人生を余儀なくされた。

 藍昭光氏は1930(昭和5)年、京都の北白川で生まれた。3年ほど京都で生活したが、父の家精が京都帝国大学大学院を退学したことを契機に、台湾南部の屏東に居を移した。当時、藍家の邸宅があった屏東には、台湾製糖株式会社が本社を構えていたほか、陸軍第8飛行師団の飛行場があり、比較的、内地人(日本人)が多く暮らしていた。そのため昭光氏は幼少期から日本人コミュニティの中で育った。

 屏東の小学校に進学した昭光氏だったが、父の上海赴任に伴い、上海の北部第一小学校に転校、さらに祖父の高川が逝去すると再び台湾に戻り、今度は台北の建成国民学校に転校した。卒業後は台北第一中学校に次ぐ名門校だった台北第三中学校に進学したが、大東亜戦争の戦況悪化で、2年生に進級した頃には勉強どころではなかった。1945(昭和20)年4月には学徒兵として召集され、日本の勝利を確信して訓練に励む毎日を送った。

 裕福な家庭で育ち、日本人との交流も多かった昭光氏は、間違いなく他の多くの本島人(台湾人)とは全く異なる日本統治下の台湾を生きてきた。しかしそれは一方で、戦後の国民党政権下の台湾では苦しい立場を強いられることを意味した。実際、国民党政府が台湾を接収してからしばらく経った頃、父に逮捕状が出された。「敵国」であった日本との関係の近さが理由だったと考えられる。1949年、昭光氏は父と兄とともに台湾を脱出し、日本へ亡命を果たす。購入した漁船に乗り14日間の命懸けの航海だった。日本では、父は台湾独立運動に奔走し、昭光氏は京都大学法学部に進学した。卒業後は東京の貿易会社に就職し、結局、再び祖国・台湾の土を踏むには東京オリンピック直前の1963年まで待たなければならなかった。

 藍家の栄枯盛衰は、まさに激動の台湾史そのものである。そんな名家の血を引く昭光氏の人生もまた、統治者の交代に翻弄された台湾の悲哀を象徴していると言えるだろう。台湾史の生き証人も今年で米寿を迎えた。昭光氏の人生を単に個人史にとどめず、台湾史として書き記し
ていかなければならない。
(一般財団法人自由アジア協会「権田猛資のフォルモサニュース」第14号、2018年9月20日)
藍昭光さん(2019年8月19日撮影)
昭和13年に撮影された藍家の家族写真。中央が祖父・高川、その左が父・家精、両者の間の少年が昭光氏

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