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台湾出身「元日本人」国籍復帰確認裁判の判決下る〜取材者として見つめてきた先輩達「最後の戦い」

1月11日、東京地方裁判所で一つの判決が下された。日本統治下の台湾に「日本人」として生まれ、今なお「日本人」としての矜持を抱き続ける3名の台湾出身「元日本人」が、戦後に本人の意思に反して日本国籍を剥奪されたことは不当だとし、現在も日本国籍を有していることの確認を求めていた裁判である。

原告は、1922年生まれの楊馥成(ようふくせい)さん、1927年生まれの林余立(りんよりつ)さん、1933年生まれの許華杞(きょかき)さんで、2019年10月4日、3名は止むに止まれぬ思いで訪日し、大阪地方裁判所にて提訴に踏み切った。未曾有のコロナ禍で裁判の進捗は滞り、その後、東京地方裁判所に移され、2年以上を経て今回の「敗訴」に至った。
原告の3名。左から、楊馥成さん、許華杞さん、林余立さん

訴えは退けられた


原告が裁判で求めていたことはただ一つ。「日本国籍を有していることを確認する」。それ以外に賠償や謝罪などを要求するものではなかった。求めているのは「国籍」という人権であり、尊厳であり、これまで「日本人」として生き抜いてきた台湾の人々の生き様そのものの確認である。
求めたことはただ一つ...


裁判という手段に踏み切った原告らの思いや決断を理解するには、台湾の歴史、そしてその土地で今日まで生き抜いてきた人々の境遇を知る必要がある。

1895年から1945年までの50年間、台湾は紛れもなく「日本」だった。日清戦争で勝利した日本は、清国との間で下関条約を締結し、台湾は日本に永久割譲された。日本はその後、台湾を「新領土」として統治してきたわけである。この50年の間に台湾で生まれた原告ら台湾出身者は「日本人」として生まれ、日本語を母語として教育を受けてきた。

また原告らと同世代の台湾出身者は、先の大戦も経験している。「日本人」として国のために身命を賭して戦い、日本の勝利を信じていた。厚生労働省社会・援護局によると、台湾出身の軍人・軍属は20万7183人で、その内3万306人が戦没している。

実際、原告の楊馥成さんは1943年に軍属に志願し、シンガポールにて南方方面の部隊に対する補給任務などに従事した。また林余立さんも海軍工員として高雄の海軍工廠で勤務、海軍整備兵として空襲の被害も少なくなかった台湾の地で戦禍を生き抜いた。
楊馥成さん


許華杞さんは軍歴こそないが、12歳まで「日本人」であり、「軍国少年」として日本の勝利を信じていた。とりわけ戦時中の台湾では「一視同仁」や「内台一如」といったスローガンが盛んに叫ばれ、「皇民化」が推進されたり、名前を日本名にする許可制の「改姓名」が実施されたりした。

歴史の事実として「あの時、台湾は日本だった」(楊馥成さん)。そしてそこに生きる人々は「天皇陛下の赤子」であり、「日本人」だったのである。
海軍整備兵時代の林余立さん

 

しかし、日本は敗戦した。その結果、日本による台湾の統治は終了し、台湾は新しい外来政権である中華民国・国民党政権によって管轄されることになった。すなわち原告ら「元日本人」が戦時中に銃口を向け合った敵国による支配の始まりである。戦後台湾史は、かつての敵による支配の下、「日本人」であった人々が「元日本人」であるが故に長く残酷な悲劇に直面することになった。

楊馥成さんも戦後、「嫌匪」という罪なき政治犯・思想犯の烙印を押され、2年間、監獄で拷問を受け、その後、台湾の離島である緑島の政治犯収容所に入れられ、約7年半、自由を奪われた。

また林余立さんは、敗戦直後の生活苦から中華民国・国民党の軍隊に入ることを余儀なくされ、国共内戦が繰り広げられていた中国大陸の激戦地に送られた。当時、国共内戦で苦戦し、兵員不足に悩まされていた国民党は、林さんのように、かつての優秀な元日本兵の存在を必要としていた。元日本兵をはじめ台湾の青年達は、敗戦直後の経済状況から生きていくために入隊せざるを得なかった人、甘い誘惑に騙されてしまった人、強制的に入れられた人など、様々な事情で駆り出された。数万人の優秀な台湾の青年たちが日本の軍服から国民党の軍服に着替え、中には共産党の捕虜になってしまい、今度は人民解放軍の軍服を着せられて、その後の朝鮮戦争の人海作戦で犠牲になった人もいる。
林余立さん


許華杞さんは戦後、測量学校で学び、学問の道を志した。縁があって日本留学も果たし、世界的に最も研究が進んでいた日本の地殻変動や地震観測の研究分野に身を置いた。日本同様に地震が頻発する台湾で地震研究に励もうとするが、当時の台湾の学術界は「政治」が蔓延り、国民党でなければ教授にはなれなかった。許さんも止むを得ず入党するが、アメリカ留学組が優遇されていた時代に、日本留学組の許さんは研究費の申請が通らないなど数々の苦労を強いられた。その時、研究を支えてくれたのが日本留学時代の恩師や日本人研究者仲間で、台湾で地震観測をするための観測器などは日本から台湾に持ち込んでもらい、物心両面の支えがあって共同研究を進めることができた。「根気と継続が欠かせない地震観測に取り組めたのは日本時代の教育と戦後の日本留学のおかげ」と許さんは話す。
許華杞さん

この裁判の原告らは等しく「日本人」として生を亨け、「日本人」として戦禍を生き抜き、また戦後の台湾では「元日本人」であるが故に辛酸を嘗め続けてきた。原告だけではなく、台湾には同時代を生き抜いた人、そして生き抜くことも叶わず無念のまま命を落とした人々がたくさんいる。こうした人々は私たち日本人にとっての「先輩」であり、先輩達が生きた歴史は日本にとって他人事では決してない。
コロナ禍の裁判で、弁護士や支援者とはオンラインで打ち合わせを重ねた

話を今回の裁判の判決に戻したい。過去の国籍関連裁判と同様に、今回の裁判でも「人権」の観点から原告の提起があった。すなわち日本国籍が本人の意思に反して剥奪されたことは、1948年に国連で採択された世界人権宣言の精神に反するという主張である。

同宣言の第十五条は「1 すべての人は、国籍を持つ権利を有する。 2 何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない」としている。同宣言は今日のあらゆる人権条約の基礎になっており、後述のサンフランシスコ平和条約においても、世界人権宣言の目的を実現するために努力することが明記されている。
2021年10月12日、意見陳述に臨む楊さん(支援者様提供)

法廷に立った楊さんは意見陳述において「帰化」ではなく国籍の「確認」を求める理由を語った

しかし、今回の判決は、これまでの最高裁の判例を踏襲し、一貫した戦後の日本政府の基本的立場を揺るがし得るものではなかった。

1951年に締結したサンフランシスコ平和条約によって日本は台湾に対する主権を放棄した。当時、日本に代わって台湾を支配した中華民国・国民党政権はその講和会議に招かれていなかったことから、日本は中華民国との間では1952年に日華平和条約を締結した。

日本の台湾出身「元日本人」の国籍問題に対する基本的立場は、これらの国際条約に基づき台湾出身「元日本人」の日本国籍は「喪失」し、中華民国籍と「見なす」というものである。

また今回の判決は世界人権宣言についても「加盟国に対して道義的な拘束力を有するにとどまり、法的拘束力を有するものとは介されない」ため採用することはできないとし、やはり過去の最高裁の判例を踏襲するものだった。

司法の専門家でない私が判決内容を論評することはできないが、一点、どうしても読み解くことできない箇所があった。

それは、台湾出身「元日本人」が日本国籍を「喪失」し、中華民国籍と「見なす」という日本の立場に係る以下の部分である。


ここには「台湾に属すべき人に対する主権」は、サンフランシスコ平和条約には規定がなく、過去の最高裁判例からも「平和条約の締結に至る外交的経緯等を踏まえた条約の合理的解釈により決するのが相当」とある。

確かに日本はサンフランシスコ平和条約によって台湾に属すべき領土に対する主権は放棄した。ただし「台湾に属すべき人に対する主権」は放棄していない。百歩譲って、判決書にある通り「台湾に属すべき人に対する主権」は「合理的解釈」によって放棄したとしよう。

しかし、戦後の日本の台湾の国際的地位に対する一貫した姿勢は、放棄はしたが、その後の帰属先については言明せず、またそれを決める立場にもなく、「未定」という姿勢を貫いてきたはずである。

そうであるとすれば、仮に台湾出身「元日本人」が日本国籍を「喪失」したという「合理的解釈」が成立したとしても、日本が「元日本人」の国籍について、「合理的解釈」によって中華民国籍と「見なす」ことは、主権放棄後の台湾の帰属先を明らかにせず、「未定」の立場である日本の姿勢と矛盾が生じるように思えるが、そこに合理性は見出せるのだろうか。

司法の判決は判決として受け止めつつ、私自身も過去の最高裁判例や類似の判例を引き続き学んでいきたいと思う。

楊さんら原告はじめ、台湾出身「元日本人」の切実な思いに対しては、司法や行政、立法など公の立場からでしか果たせない問題もある。一方で楊さんは、2019年10月4日に提訴に踏み切った翌日、私のインタビューに応じていただき、この「裁判」という行動におよんだもう一つの「狙い」を語ってくれていた。

「裁判の結果がどうであろうと、この裁判を通して日本人に、台湾人の若者が日本のために戦争を戦い、戦後は敵性国民との理由でひどい目にあわされ、殺された人がたくさんいるという真実の歴史を知ってほしい」(2019年10月5日、台北市内にて)
提訴翌日に台湾に戻ったばかりの楊さん。膨大な訴訟資料に目を通す

つまり、この裁判は楊さんら原告個人の人権や尊厳にとどまるものではない。私たち日本人の「先輩」達の生き抜いてきた証を日本人に忘れ去ってくれるなという、先人達の声なき声を楊さんらは「裁判」という形を通して日本人に対して叫んでいるのである。

「日本人」として生まれ、矜持を持ち続ける人々の思いや声を日本が無視し、国籍問題などを放置し続けて、戦後75年以上が経過して歴史が忘れ去られつつあることを憂い、悲しみ、憤り、止むに止まれぬ思いで「最後の戦い」に立ち上がったわけである。

判決後、記者会見をする楊さん(支援者様提供)

これは先輩方が日本人に与えてくれた「最後のチャンス」ではないだろうか。日本はこれまで先の大戦で「日本人」として戦った台湾の人々に感謝の言葉も「ご苦労様」の一言も、もちろん謝罪も何一つせずに無視してきた。「自分達を忘れてくれるな」という楊さんらの願いは、日本人一人一人が受け止め、できることがあるはずである。

「難しい」問題として思考を停止し、これからも何もしないままでいることは簡単である。しかし、問題の「難しさ」を骨身に沁みて理解し、それでも行動してきた人々が楊さんらの世代にはたくさんいる。

1月13日、裁判官に自らの思いを語るために昨年10月から日本に滞在している楊さんに、判決が下された今の率直な気持ちを電話で聞いた。楊さんは「気持ちは2019年に大阪で提訴した時と何も変わらない。裁判を通して日本人にもっと台湾に関心をもってもらいたい」と一言で話した。100歳のご高齢で裁判を戦い、傷口にさらに塩を塗るような判決が下された直後で、気落ちされていないか心配であったが、意外にも語気には力強さがあり、今後も信念のままに動き続けていく意志を感じた。今後の裁判の動向については「原告同士で話し合い、弁護士とも相談する」とのことだった。

林余立さんも許華杞さんも判決を残念に思いつつも、今後については楊さんが台湾に戻り次第、詳細な報告を受けて考えたいとしており、今回の判決に動じている様子は一切感じられなかった。

楊さんらの「使命」を帯びた行動はこれからも続く。今後の裁判の展開にも注目しつつ、先輩達の思いをしっかり受け止め、日本が「最後のチャンス」に報いることができればと願わずにはいられない。

▼楊馥成さんインタビュー動画

▼判決を受けて、台湾在住作家・片倉佳史さんとお話ししました

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