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台湾出身元日本兵・楊馥成さんが「日本人」として日本人に伝えたいこと

1922(大正11)年、日本統治下の旧台南州・下営で生まれた台湾出身元日本兵の楊馥成(よう・ふくせい)さんは、地元の公学校(本島人子弟を対象とした初等教育機関)を卒業し、高等科を経て、嘉義農林学校に進学。卒業後は、台南州庁農林課で勤務しました。
楊馥成さん
1943(昭和18)年、新聞広告で「軍属」の募集を知り志願し、戦争真っ只中で「どうせいつか兵隊に行くのであれば」との気持ちで志願されたそうです。

シンガポールの「南方派遣軍野戦貨物廠」に配属された楊さんは、南方方面全軍に対する物資補給を主な任務とし、物資の供給状況を管理したり、専門の農業の知識を生かして、広大な牧場に農地を開墾して野菜を育てたりもしました。またシンガポールとスマトラの間を何度も行き来して、食糧調達も担いました。

隊長は農林大臣・石黒忠篤の子息である石黒孝次郎で、事務所の大事な金庫の鍵を託されるなど厚く信任され、多くの仕事を任されたそうです。

日本が敗戦を迎える直前、石黒隊長は楊さんに対し、食糧確保のため、サゴヤシの澱粉を調達するよう命じました。そのため、敗戦は小さな南方の島で知ることとなりました。街の様子から戦争が終わったことを知り、「いつ死ぬかわからない戦争が終わったことに、命拾いしたとほっとした」そうです。

石黒隊長は楊さんに日本に来たらどうかと誘いましたが、台湾の様子が気がかりで、結局台湾に戻ることを決めました。そして、台湾に戻って目撃したのは、国民党敗残兵のみすぼらしい姿で「がっかり」したそうです。
戦後、石黒氏(写真左)と再会を果たした
親戚が日本に密航計画を企て、自身も日本行きを目指していましたが、その時、中華民国・国民党政権の行政幹部の募集を見つけ、すでに北京官話を身につけていた楊さんは、力試しにと受験し、合格しました。農林庁検験局肥料調査官として勤務した後、1949年に辞職して新聞記者になりました。記者時代には中華人民共和国の建国直前に取材目的で広東を訪れました。

中国大陸の現実を目の当たりにした楊さんは、遅かれ早かれ台湾にも共産党がやってくると考え、再び日本への密航を計画します。友人の一人と共同で漁船を購入しましたが、密航時に他の友人もたくさん来てしまい、計画がばれて密航は失敗に終わりました。

通常、密航の罪は3ヶ月ほどだそうですが、楊さんは中国大陸への渡航歴や家宅捜索で見つかった書籍の存在によって、長期間にわたり拘束されました。「嫌匪」という罪なき政治犯、思想犯として2年間、監獄に入れられ、拷問を受けました。その後、火焼島の政治犯収容所に送られ、約7年半にわたり自由のない生活を強いられました。

日本人として生まれ、日本のために戦争を戦った楊さんは、戦後も「日本人」としての矜持を抱き続け、今も「日本人」であると主張しています。

2019年10月4日、楊さんら日本統治時代に生まれた台湾の男性3名が大阪地方裁判所において、日本国籍を今も保有していることを確認するため国を相手に提訴しました。

楊さんは「裁判の結果がどうであろうと、この裁判を通して日本人に、台湾人の若者が日本のために戦争を戦い、戦後は敵性国民との理由でひどい目に合わされ、殺された人がたくさんいるという真実の歴史を知ってほしい」と言います。

戦後、「元日本人」であるが故に苦しみを強いられ、命を奪われた人々の存在は、決して日本にとって他人事ではありません。台湾を放棄したから日本には関係ないという姿勢は、人権を重んじる国家として恥ずかしいことです。また、台湾出身元日本兵に対する戦後補償が十分になされていないという「差別待遇」を放置することも、日本が後世に汚点を残してしまうことになります。

本人の意思に反して国籍を奪われた「日本人」の人権を守るため、日本はこれ以上、問題を放置し、無視してはならないはずです。日本人の先輩である楊さんが、「日本人」として伝えたい真実の歴史を、日本人は真摯に耳を傾けて学ぶべきでしょう。

まもなく裁判の判決が出るとのことです。ぜひ多くの方々に注目されることを祈るばかりです。
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