台湾の北東部に位置する宜蘭。四方を山と海に囲まれ、田園風景が広がる風光明媚な土地だが、かつてこの場所が若き特攻隊員の出撃地であったことはあまり知られていない。7月9日、私は特攻隊が出撃した飛行場の建設に従事した経験を持つ李英茂さんにお話をうかがうため、宜蘭県羅東の自宅を訪ねた。
1929(昭和4)年に宜蘭で生まれた李さんは、旧制宜蘭中学校(現・国立宜蘭高級中学)2年生だった1943(昭和18)年、勤労奉仕として飛行場の建設に駆り出された。宜蘭には南飛行場、北飛行場、西飛行場の3つがあったが、李さんら宜蘭中学の学生は、南飛行場の建設を担っていた。
建設は急ピッチで進められたが、重機も不足していたため人海作戦だった。宜蘭だけでなく台北や新竹からも学生や青年団、民衆が集められた。その数は正確にはわからないものの、5000人ほどの人が従事していたのではないかと李さんは人数の多さを強調した。作業は連日、朝から始まり、もっこを担ぎ、水田を土で埋めて平地にする仕事などをしていた。そこでは日本人と台湾人は一致団結し、差別や区別は一切なかったという。李さん自身も「日本人」として、国のため、天皇陛下のためにという思いで「猪突猛進」に汗を流していた。
半年ほどで飛行場が完成し、1945年4月から南飛行場は神風特別攻撃隊の飛行場として使用されることになった。当時、宜蘭中学3年生だった李さんは学徒兵として召集され、軍事訓練に勤しむ毎日で、特攻隊機を目撃したことはない。また飛行場周辺も厳重に警備されており、一般の人々が特攻隊の存在を知る術はなかった。しかし、李さんの中学の同級生は、防空壕で特攻隊機と交信している通信兵から、突然、モールス信号の交信が途絶えたという話を聞いたりしていた。また別の同級生の実家は時計屋を営んでおり、ある日、特攻隊員が航空時計の修理にやって来たことがあったが、何日経っても修理の終わった時計を受け取りに来ることはなかったという。こういった話を同級生から聞いていた李さん自身も薄々、特攻隊の存在をわかっていた。
現在、南飛行場の跡地には当時の八角形の監視塔が一つ残るのみだが、かつて滑走路のあった場所に立ってみると、正面には亀山島の島影がうっすらと望める。特攻隊員たちはこの亀山島を飛行目標として飛び立っていった。ちょうど亀山島から沖縄海域の延長線上には知覧の特攻隊基地があり、宜蘭と知覧のそれぞれから挟み撃ちをする形だった。
李さんは、知覧には特攻隊の記念館があるが、宜蘭にはそれがないことを嘆く。この現状を不十分だとしつつも、「お国の事情が違うから」とやるせない様子でつぶやいていた。
別れ際、李さんはこれまで自身が書き溜めてきたエッセイや収集した資料、書籍を見せてくれた。そして「少しでも日本の皆さんに理解してもらえば、日本と台湾の絆は強まる」と力強く語る姿は使命感に満ち溢れていた。41年にわたる教師人生を歩み、その後、現在に至るまで郷土史研究家として多くの日本人や台湾人に歴史を語り継いできた李英茂さん。李さんの言葉の端々から、なぜ歴史を学ばなければいけないのか、その意味を教えられた。
1929(昭和4)年に宜蘭で生まれた李さんは、旧制宜蘭中学校(現・国立宜蘭高級中学)2年生だった1943(昭和18)年、勤労奉仕として飛行場の建設に駆り出された。宜蘭には南飛行場、北飛行場、西飛行場の3つがあったが、李さんら宜蘭中学の学生は、南飛行場の建設を担っていた。
建設は急ピッチで進められたが、重機も不足していたため人海作戦だった。宜蘭だけでなく台北や新竹からも学生や青年団、民衆が集められた。その数は正確にはわからないものの、5000人ほどの人が従事していたのではないかと李さんは人数の多さを強調した。作業は連日、朝から始まり、もっこを担ぎ、水田を土で埋めて平地にする仕事などをしていた。そこでは日本人と台湾人は一致団結し、差別や区別は一切なかったという。李さん自身も「日本人」として、国のため、天皇陛下のためにという思いで「猪突猛進」に汗を流していた。
半年ほどで飛行場が完成し、1945年4月から南飛行場は神風特別攻撃隊の飛行場として使用されることになった。当時、宜蘭中学3年生だった李さんは学徒兵として召集され、軍事訓練に勤しむ毎日で、特攻隊機を目撃したことはない。また飛行場周辺も厳重に警備されており、一般の人々が特攻隊の存在を知る術はなかった。しかし、李さんの中学の同級生は、防空壕で特攻隊機と交信している通信兵から、突然、モールス信号の交信が途絶えたという話を聞いたりしていた。また別の同級生の実家は時計屋を営んでおり、ある日、特攻隊員が航空時計の修理にやって来たことがあったが、何日経っても修理の終わった時計を受け取りに来ることはなかったという。こういった話を同級生から聞いていた李さん自身も薄々、特攻隊の存在をわかっていた。
現在、南飛行場の跡地には当時の八角形の監視塔が一つ残るのみだが、かつて滑走路のあった場所に立ってみると、正面には亀山島の島影がうっすらと望める。特攻隊員たちはこの亀山島を飛行目標として飛び立っていった。ちょうど亀山島から沖縄海域の延長線上には知覧の特攻隊基地があり、宜蘭と知覧のそれぞれから挟み撃ちをする形だった。
李さんは、知覧には特攻隊の記念館があるが、宜蘭にはそれがないことを嘆く。この現状を不十分だとしつつも、「お国の事情が違うから」とやるせない様子でつぶやいていた。
別れ際、李さんはこれまで自身が書き溜めてきたエッセイや収集した資料、書籍を見せてくれた。そして「少しでも日本の皆さんに理解してもらえば、日本と台湾の絆は強まる」と力強く語る姿は使命感に満ち溢れていた。41年にわたる教師人生を歩み、その後、現在に至るまで郷土史研究家として多くの日本人や台湾人に歴史を語り継いできた李英茂さん。李さんの言葉の端々から、なぜ歴史を学ばなければいけないのか、その意味を教えられた。
コメント
コメントを投稿