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宜蘭の恩人、紀野一義という「侍」

 「紀野一義少尉は宜蘭の恩人です」。そう語るのは宜蘭の郷土史研究家である李英茂さんだ。在家仏教団体真如会主幹を務め、日本では仏教学者として知られている紀野一義氏だが、先の大戦末期には陸軍工兵少尉として宜蘭に駐屯した経験がある。

 1922(大正11)年に山口県萩市で生まれた紀野氏は、東京帝国大学2年生だった1943(昭和18)年、学徒兵として召集された。その後、工兵将校となり、1945(昭和20)年1月、激戦地であるレイテ戦線行きの輸送船団に乗船した。しかし、その途中、輸送船団は敵の攻撃に遭い、紀野氏が乗船したサマラン丸を除く輸送船や護衛艦、駆逐艦はいずれも海の藻屑と消えてしまった。結局、サマラン丸は進路を台湾に変更し、敵の潜水艦による追撃から逃れて基隆港にたどり着いた。

 台湾に上陸した紀野氏は、奇しくも父母の郷里である金沢の第九師団武部隊工兵連隊に配属された。そして宜蘭の特攻基地近くにあった台湾人集落の中心地に駐屯した。

 当時、宜蘭も空襲による被害が甚大で、莫大な数の不発弾が人々を恐怖に陥れていた。その様子について、「台湾人の農民の庭といわず、畑といわず、田圃といわず、座敷の中にまで転がっていて、民心の動揺はその極に達していた」と紀野氏は振り返っている。

 この時、日本軍将兵は不発弾には触れてはいけないという布告が出ていたという。しかし紀野氏は怯え苦しむ農民らを見かねて、こっそりと不発弾処理をはじめた。そして「不発弾処理の名人」として徐々に知られるようになると、紀野氏は農民らにとって頼みの綱となっていった。紀野氏は不発弾の存在を聞きつけると、スパナ1本を手に現場へ駆けつけ、たった一人で処理した。不発弾は250キロから500キロ、さらには1トンの大型爆弾も含み、その作業が常に死と隣り合わせであったことは推して知るべし。終戦までに処理した数は1752発分に及んだという。

 終戦を迎え、国民党政府軍の捕虜となった紀野氏は、1946(昭和21)年3月に解放され、帰国した。しかし両親や親族は皆、広島に投下された原爆によって犠牲となり、「孤独貧寒の身」となった。そして戦争によって何もかもを失った紀野氏は、戦後は仏教伝道者の道を歩んでいくことになった。

 2013(平成25)年12月28日に鬼籍に入った紀野氏だが、生前、自身がかつて駐屯した宜蘭を再訪している。その際に案内役を務めたのが宜蘭県史館でボランティアをしている李英茂さんである。李さんは、命をかけて一人で不発弾を処理した紀野氏を「侍」と呼んでいる。そして、「紀野氏は単に不発弾処理の技術を持っていたわけではない。肝っ玉を持っていた」と敬意を表して語った。

 軍の命令に背いてでも宜蘭の人々のために命をかけた紀野一義氏。日本人としても忘れ去ってはいけない「侍」ではないだろうか。
(一般財団法人自由アジア協会「権田猛資のフォルモサニュース」第10号、2018年7月25日)
宜蘭の郷土史研究家・李英茂さん

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