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蒋介石を「神様」として祀る蔣公感恩堂〜中華民国秘史と台湾現代史の交錯を覗く

 台湾南部・高雄に位置する旗津半島には、初代中華民国総統を務めた蒋介石を「神様」として祀るお堂がある。蔣公感恩堂と称すこのお堂は、蒋介石が逝去した1975年に創建の起源を有する。お堂に入ると、正面に観音菩薩、正面左手に道教に由来する三官大帝、そして正面右手に蒋介石の「神像」が配置されている。

 戦後、国共内戦に敗れて台湾へ移り、二二八事件以降、戒厳令下の台湾で台湾人の自由を奪い、虐殺の限りを尽くした一人の人間が何故、神格化されているのだろうか。そこには戦後の「中華民国」秘史とも言える大陳島住民の台湾移住が関係していた。

 現在、中華人民共和国浙江省の管轄下にある大陳島は、一時期、中華民国の版図にあった。1949年、中華民国・国民党政府は国共内戦で敗北を喫したが、その後も中国大陸の一部地域で共産党との戦闘継続を試みた。大陳島も1951年より「大陸反攻」をうかがう拠点となったが、人民解放軍による侵攻は止まらず、1955年1月18日、大陳島の防衛ラインであった一江島が陥落。その結果、1955年2月8日より、大陳島住民の台湾への「撤退」作戦が展開された。金剛計画と名付けられた作戦は、蒋介石の長子である蒋経国が指揮し、自らも約1万8,000人の大陳島住民とともに米国の第七艦隊の護衛の下、渡台している。蒋経国が自ら指揮したことは共産党の攻撃から生活を脅かされていた大陳島住民の不安を払拭するには十分であったと想像される。そして台湾への上陸を果たした大陳島住民は、中華民国・国民党政府によって台湾各地に移住先が割り振られ、住宅をはじめ、生活が保障された。

 蔣公感恩堂が建つ旗津半島の實踐新村は大陳島住民の移住先の一つであった。現在も村内を歩いていると中国語でも台湾語でもない聞き慣れない言葉を耳にすることがある。実際に1955年に大陳島から渡って来た人々が今も暮らしているのだ。

 蔣公感恩堂は同村に移住した大陳島住民によって建立された。元々は1975年に蒋介石が逝去した際、村民によって遺影が安置された簡易的な霊堂であったが、その後、村民の周普法氏らが発起人となり、未来永劫、蒋介石を追悼できるようにするために蔣公感恩堂は現在の姿へと整備されていった。

 現在、蔣公感恩堂を管理する総幹事の林春生・周金鳳夫妻もまた、幼少期に移住した大陳島出身者であり、「お告げ」によってお堂の管理を任せられるようになった。夫妻によると、1975年当時は蒋介石の追悼をするための場所に過ぎなかったが、徐々に村民をはじめ各地に暮らす大陳島住民らの信仰を集める場所へと変貌し、蒋介石は神格化されるに至ったという。

 2000年代の陳水扁政権以降、台湾では権威主義体制下の「負の遺産」とも言える蒋介石・経国父子の銅像撤去、道路や施設などの名称から「中正」などを排除する「脱蒋化」が進み、近年もその流れは加速する一方である。そのような台湾社会の流れに直面するお堂の現状について、「信徒は年々減少し、高齢化が進んでいる」と上述の林氏は語る。また以前は蒋介石の生誕日や逝去日に合わせてお堂では法会などを催していたが、最近は各信徒が個別に訪問するに留まっているという。

 最早、成熟した民主主義国家となった台湾において、権威主義体制の指導者を信仰しようとする新たな信徒の獲得は困難であり、お堂の長期存続は客観的に考えて難しいと思われる。林・周夫妻も「今後については自然に任せて『神様』に従うのみ」と話しており、社会の変化をありのままに受け入れている様子であった。一方で林・周夫妻のように、蒋介石によって移住後の生活を保障されたと考え、蒋介石・経国父子に今なお「感謝」する大陳島住民が一定数存在していることもまた台湾社会の現実である。

 取材中、林・周夫妻には流暢な中国語と台湾語で筆者の取材に応じていただいた。大陳島出身者だが移住後、台湾社会に順応し、生活していくためには言葉を習得せざるを得なかったのだろう。蔣公感恩堂を通して、中華民国秘史と同時に台湾現代史の交錯を垣間見た気がする。
霊媒師の夢枕に現れた蒋介石の「お告げ」に従い2012年に作り変えられた軍服を着た蒋介石の神像。元々は中山服姿であった
現在、お堂を管理する林春生・周金鳳夫妻
(一般財団法人自由アジア協会「権田猛資のフォルモサニュース」第27号、2020年4月6日)

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