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歴史の目撃者が語る二二八事件

 戦後の台湾において、今日まで深い傷跡を残している二二八事件。1947年2月28日、新聞記者として始めから終わりまで事件を目撃した人物がいる。後に自身も拘束され「死刑囚」として無実の罪を着せられた蕭錦文さんだ。私は6月30日、蕭さんが暮らす桃園市の介護施設を訪ねた。

 戦後、叔父で台北市内の新聞社「大明報」の社長であった鄧進益氏に誘われ、記者の道に進んだ蕭さんは記者となって間もなくして、二二八事件に遭遇する。 

 二二八事件は、前日の1947年2月27日に発生した事件に端を発する。その日の夕刻、台北市内で台湾人女性が闇タバコを販売していた。当時、タバコは専売制が採用されていたため、原則として専売局以外の販売は禁止されていた。専売局の取締官はその女性からタバコを取り上げ、所持金も奪った上で暴行を加えた。この様子を見ていた民衆は、日頃の統治者による賄賂や汚職、横暴な振る舞いに対する不満が爆発し、取締官らに反旗を翻した。この時、取締官の一人が民衆に向けて発砲し、その流れ弾を受けて一人の台湾人青年が即死するという悲劇が発生した。このことにますます憤慨した民衆は翌28日に抗議活動を展開し、二二八事件、そしてその後のさらなる悲劇である白色テロへとつながっていく。

 新聞社2階の当直室で生活していた蕭さんは、27日夜にラジオを通して事件があったことを知る。この日は事件に関する放送が一晩中続き、それを聴いていたため明け方まで眠りにつくことはできなかった。そして28日の朝8時頃に太鼓の音で目覚め、2階から20名ほどの民衆による抗議デモの隊列を目にした。

 急ぎ身支度をして現場に駆けつけた蕭さんはデモ隊の最前列で取材をはじめた。太鼓を載せたリヤカーの横で、リーダーと思われる人物が台湾語で台北市民にデモへの参加を呼びかけていた。その声を聞きつけた市民やラジオ放送で抗議デモを知った人々が次から次へ隊列に加わり、抗議デモは瞬く間に「烏合の衆」へと膨れ上がった。参加者は男性が多く、20代から30代の若者が中心で、彼らは皆、でたらめな統治に対する批判や不満を叫んでいた。

 行進を続けるデモ隊は、12時頃に専売局台北分局に到着した。しかしすでに専売局の職員は逃げ出しており、代わりに警備総司令部副官処の王民寧処長がベランダに姿を現した。最前列で話を聞いた蕭さんによると、王処長は「ここには誰もおらず、抗議書の受取人はいないから、陳儀行政長官のところに直接交渉に行きましょう」と短く呼びかけた。そして王処長自らが民衆を引き連れて行政長官公署に向かった。

 しかし行政長官公署に到着するとそこには憲兵が待ち構えており、民衆に向けて機銃掃射が行われた。銃声が轟くなか、民衆はその場に伏せたり、逃げ回ったりして大混乱だった。この時、10数名が亡くなっているが、蕭さんも5人ほど青年が倒れているのを目にしている。

 その後、蕭さんは社に戻って、記事を書いた。詳しくは覚えていないが、「こういうやり方では怨みを買うだけであり、これ以上続けばさらなる虐殺事件につながる」という趣旨の原稿を書いたそうだ。

 そしてそれからしばらく経った3月9日、蕭さん自身も二二八事件の当事者として悲劇に巻き込まれていく。この日、新聞社に2人の私服警官がやってきた。そして彼らは有無を言わさず蕭さんを台北警察局(南署)に連行。訳も分からないまま警察局の地下室に連れて行かれると、そこで初めて「お前の社長の鄧進益はどこにいるのか」と聞かれた。当時、二二八事件処理委員会の委員も務めていた鄧進益氏だったが、戒厳令下でお互いの交流は途絶えており、居場所はわからなかった。そのため正直に「わからない」と答えると、紐で縛られ跪いた姿勢のまま銃で殴打され「白状しろ!」と迫られた。しかし本当にわからないため何も答えられず、拷問は続いた。顔に布を巻かれて水をかけられて呼吸ができないようにして苦しめられたりもした。どうしようもなく「白状する」と告げ、階段の下の物置に隠れているのではないかと嘘をついてごまかすと、ようやく拷問から解放された。

 その後、地下室の牢屋に移された蕭さんだったが、しばらく過ごしたある日、目隠しをさせられトラックに乗せられた。警察からは何も言われなかったが、「死刑囚」の烙印を押されていた蕭さんは処刑場に運ばれていると理解していた。蕭さんは、拷問を受けている最中や牢屋の中、そして処刑場に連れて行かれる道中で常に考えていたことがあった。それは「戦時中に華々しく戦死していれば靖国神社に祀られた」ということで、とにかく情けなく、残念で悔しい気持ちだったという。

 しかし乗車してから20分ほどして、突然、処刑場に向かうはずのトラックは警察局に引き返した。それには理由があった。3月17日、白崇禧国防部長が台湾に上陸し、裁判をしていない者は殺してはならないという命令を発したからであった。警察局に戻って事情を聞き、自分が間一髪で助かったことを知ると、ただただ「よかった」と噛み締めた。2013年4月3日、蕭さんは白崇禧国防部長の息子である白先勇氏と初めて顔を合わせており「貴方の親父に助けられた」と当時のことについて言葉を交わしている。

 民主化後、台湾で二二八事件が顧みられるようになると、蕭さんは総統府と台北二二八紀念館の日本語ボランティアとして、数多くの日本人に自身の体験や台湾の歩みを語り継いできた。

 戦時中にはインパール作戦で華々しい死を常に覚悟し、戦後は処刑場に向かうトラックで無念の死を覚悟した蕭さん。今日まで生きているのは「奇跡」だと笑って話す姿は活力で漲っていた。歴史の生き証人は今日も「台湾」を語り続けることを天命として生きている。
(一般財団法人自由アジア協会「権田猛資のフォルモサニュース」第8号、2018年7月2日)
二二八事件受難者の蕭錦文さん



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