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日本統治時代の台湾の「小学校」で学んだ蘇愛子さんの思い出

日本統治時代の1932(昭和7)年に台湾・台北でお生まれになった蘇愛子さん。

教育者であった愛子さんのお父様は子供達が「日本文化に溶け込むように」日本人子弟が通う教育機関へ通わせる教育方針でした。そのため、幼少期には西本願寺附属の幼稚園に通い、内地人(日本人)の子供たちと時間を過ごしました。

その後、台北建成小学校に進学。クラスは男女共学クラスで、女子生徒の中で本島人(台湾人)は愛子さんお一人だけでした。

建成小学校では、教室前の廊下に下駄箱があり、靴下で入室していたそうです。とても清潔で綺麗だったことを覚えている教室は、毎日おからの様なものを使って床などを磨き、常に丹念に掃除が行われていたといいます。

低学年の担任の先生は女性の西山先生、高学年は恵比寿先生という男性の先生でした。恵比寿先生は水泳が得意で、体操の時間はいつもプールで水泳の授業。クラス対抗の水泳大会では毎回、愛子さんのクラスが一番でした。昼食はお弁当を持参し、愛子さんは日本式のお弁当が好きで、自ら市場で数の子やたいの子、かまぼこなどの食材を買っていたそうです。

女学校へ進学する際、お父様は台北第三高等女学校への進学を決めました。クラスで一番二番の成績を争っていた愛子さんだったため、恵比寿先生は家庭訪問し、「せめて二女は受かるから」と説得したそうです。しかし、お父様は愛子さんに小学校で級長など役員をやってほしかったのですが、当時、どれだけ成績が優秀であっても、本島人が級長の座に就くことはできないという「現実」に失望し、「台湾人は台湾人の学校に通った方が良い」という考えになっていたそうです。

結局、恵比寿先生の説得は受け入れられませんでした。クラスで先生が学生に志願書を配る際、愛子さんは台北第三高等女学校の受験者として呼ばれました。周りの友人はこの時、大変驚いていたそうで、初めて愛子さんが本島人であることを理解したそうです。

戦争の影響が台湾にも徐々に近づいていた小学校時代でしたが、「とても楽しい印象だった」ことを今でも覚えているそうです。

建成小学校は2019年に創立100周年を迎え、かつてここで学んだ人々の「同窓会」や当時の教室などが今も残る建成國民中學への「母校訪問」が行われました。日本からも日本時代に台湾で生まれ、戦後に引き揚げを余儀なくされた方々が「里帰り」を果たしました。

愛子さんもこの同窓会と母校訪問に参加しました。この時、当時のクラスメイトで級長を務めていた松浦榮次さんと久しぶりの再会を果たしました。最初は全く気づかなかったそうですが、「小柄で真面目だった」という松浦さんのことを徐々に思い出し、とても嬉しかったといいます。

戦後75年が経過し、当時の写真や物は何一つ残っていないそうですが、愛子さんの中には思い出として今もしっかり残っています。
蘇愛子さん
2019年5月の「母校訪問」で再会を果たした愛子さんと松浦さん。かつての教室にて


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