はじめに
現在、台湾で生活する私は、台湾の「日本語世代」の聞き取り調査を続けています。主に日本統治時代の台湾における学校教育や生活、戦争体験などを文章や映像(YouTube)で記録しています。日本語世代とは、1895(明治28)年から1945(昭和20)年に日本が敗戦を迎えるまで続いた日本統治時代に生まれ、日本語教育を受け、今も日常生活で日本語を多用あるいは常用している人々を指します。「日本人」として生まれ、日本のために戦争を戦い、今なお「日本人」としての誇りを抱き続ける日本語世代の人々は、私たち日本人にとっての「先輩」です。
したがって「先輩」が生きてきた時代の台湾の歴史は、日本人が学び、向き合うべき歴史でもあると考えます。しかし、私自身がそうであったように、残念ながら日本の学校教育では、半世紀にわたり日本と台湾が共有した日本統治時代の台湾の歴史を学ぶ機会はありません。
歴史的な関係の深さにとどまらず、今日の日本を取り巻く安全保障情勢を鑑みた時、力による現状変更を試みる中国という共通の脅威に直面し、「自由で開かれたインド太平洋」という国益をも共有する台湾とは更なる関係深化が急がれます。正式な外交関係を有しない台湾ですが、これまでの日台関係が民間レベルで力強く支えられてきたことは間違いなく、その中で、日本語世代の人々が果たしてきた役割は絶大です。今日の良好な日台関係の礎を構築し、絆を紡ぎ育んできた「先輩」の声に耳を傾け、しっかりとそのバトンを受け継ぐことが今を生きる日本人には求められています。
そこで、今回は、私自身が立ち会い、日台が共有してきた歴史を改めて実感した、一人の「先輩」の物語をご紹介します。
日本統治時代の台湾にあったミッションスクール・私立静修高等女学校。かつてここで学んだ頼トミコさんは、1945(昭和20)年3月、同学の卒業式に出席しましたが、空襲によって式は開始早々に中断され、卒業証書を受け取ることもないまま日本の敗戦を迎えました。
「幻の卒業式」から75年の月日が経過した2020年7月13日、トミコさんは再びかつての学び舎である現在の天主教静修中学に足を運び、75年越しの卒業証書授与式に臨みました。
「日本人」としての頼トミコさんの歩み
頼トミコさんは、1929(昭和4)年、広島県呉市で台湾人の父親と日本人の母親の間に生まれ、6歳の時に台湾・台北に居を移しました。幼少期から愛国心が旺盛だったというトミコさん。1937(昭和12)年の支那事変が勃発した際、父親に召集令状が届くと、とても嬉しく喜んだと言います。一方で母親は涙を流しており、トミコさんは母親を「非国民」だと思ったそうです。 当時、日本統治下の台湾では、内地人(日本本土出身者とその子孫)の子弟を対象とした「小学校」と漢人系住民の子弟を対象とした「公学校」、さらに原住民族の子弟を対象とした「蕃童教育所」という初等教育機関の区別が存在していました。トミコさんは、内地で生まれ、幼少期から日本語を常用していたことから、台北市内の寿小学校に進学し、内地人の子供たちと机を並べ、「日本人」として勉学に励みました。
私立静修高等女学校への進学と開戦
当時、小学校を卒業した学生は公立の学校に進学することが暗黙の風潮でした。トミコさんも公立の女学校を目指していましたが、健康上の理由で、家から遠く離れた学校に進学することを親族から反対されました。そこで、家から近い私立静修高等女学校に進学しました。私立静修高等女学校は、日本統治時代の1916(大正5)年、カトリック・ドミニコ会が創立したミッションスクールです。創立当初はスペイン籍の神父が校長を務めていましたが、1936(昭和11)年から1945(昭和20)年に日本が敗戦するまでは日本人が校長を務めていました。トミコさんが在学中は、鈴木譲三郎氏が校長でした。
クラスは内地人と本島人(台湾人)が半々であり、差別はなく、皆が仲良く勉学に励んだそうです。一般科目にとどまらず、茶道や生け花、和服の縫い方など、日本人としての礼儀作法を徹底的に教わりました。
英語は2年生のはじめまで勉強しましたが、1941(昭和16)年の開戦に伴い、敵国の言語は学ぶべきではないとして、鈴木校長は朝礼で「一日一句忘れるように」と話したそうです。
当時、トミコさんは改姓名をし、「川瀬富子」を名乗っていました。戦況が悪化すると、「勉強どころではない」という話はよく聞きますが、トミコさんによると、勤労奉仕があったり、薙刀や木刀の訓練をしたりしたものの、戦時中も変わらず授業があり、学校で多くを教わったと言います。
戦時下の台湾において、女学校での勉学に励む一方、トミコさんは「国のため」に報いることを考え続けました。前線で戦う軍人への慰問の手紙を書いたり、千人針を縫ったり、長年貯め続けた貯金箱を軍に届けたりもしたそうです。その時に感謝状が手渡されたことを今でも誇りにしています。トミコさんは日本の勝利を信じ、「日本人」としてできる限りの報国に努めていました。
中止になった卒業式と日本の敗戦
トミコさんによると、静修高等女学校の卒業式は1945(昭和20)年3月20日に行なわれました。しかし、卒業式の開始早々、空襲警報が鳴りました。この日のために、同窓生と何度も練習していた卒業の歌を披露することなく、また卒業証書を授与されることもなく、出席者は防空壕へと逃げ込み、混乱のまま式は中止となりました。その時はトミコさんも逃げることで必死になり、他に何かを考える余裕はなかったそうですが、せめてもの記念にと校庭に咲いていた花を持ち帰り、押し花にして大切にしているそうです。
「幻の卒業式」の後、トミコさんら一家は田舎に疎開し、そこで8月15日を迎えました。地面に膝をつき、泣き崩れる人々を目の当たりにして、日本の敗戦を理解したそうです。「必ず日本は勝つ」と信じていたトミコさんは「日本が負けるわけない」と受け止められず、涙しました。一緒にいた弟も「なぜ神風が吹かなかったのか」と泣き崩れていたそうです。
日本の敗戦により、台湾における日本の統治が終了すると、戦後の台湾は新たな外来政権である中華民国・国民党政府によって管轄されるようになりました。トミコさんのように、かつて「日本人」として日本のために戦った台湾の人々は、敵国であった中華民国・国民党政府によって統治され、人権や自由が剥奪され、多くの人々の命が奪われました。
1987年まで38年にわたり続いた戒厳令の下、集会や結社も禁止されたため、同窓会などの集まりもできない時代が続きました。したがって、トミコさんも「幻の卒業式」の後、同窓生らと連絡をとったり、集まったりする機会もないまま、長い年月が過ぎました。
75年越しの「幻の卒業式」の続き
静修高等女学校は戦後も「静修」の名前を残し、現在も静修中学として存在しています。戦後75年が経った2020年7月、2014年に同学を卒業した蔡亞璇さんが75年前の「幻の卒業式」について知り、同学の蔡英華校長に連絡を取りました。そして、過去の学籍名簿を調査したところ、確かに「川瀬富子」さんの在学記録が確認できたのです。早速、同学応用日本語学科の王念慈主任の下、日本統治時代の史料を参考にして、当時授与されなかったトミコさんの卒業証書の作成が進められました。そして、7月13日、トミコさんは75年ぶりにかつての学び舎に足を踏み入れました。「幻の卒業式」の続きが静修中学の一室で行なわれ、「川瀬富子」と記された卒業証書が授与されました。75年間止まっていた時計の針が動き出した瞬間でもありました。普段はお淑やかで口数少ないトミコさんですが、この日ばかりは日本語や台湾語で「とても嬉しい」と何度も口にしていました。
日本人が向き合うべき「先輩」たちの歴史
今年は戦後75周年の節目の年です。台湾にはトミコさんのように、かつて「国のために」との思いで戦争を戦い、日本本土同様に空襲の被害が甚大な台湾において戦禍を生き抜いた人々がいます。事実、台湾からも20万名以上が軍人・軍属として戦地に赴き、そのうち3万名以上が戦没しています。日本が日本として今も存在しているのは、日本人、そして「日本人」として生きてきた台湾の「先輩」のおかげです。今を生きる日本人は、「先輩」に感謝をし、歴史に向き合い、継承していかなければなりません。日本と台湾の平和を守っていくためにも。
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