以下は1987年7月1日に台湾南部・屏東県三地門を訪れた山中貞則・自由民主党税制調査会長による台湾人元日本兵の戦後補償問題に関するスピーチ全文の文字起こしです。
山中は日本統治下の台湾において、同地の里港東国民学校で教鞭をとっていた経験があり、当日はかつての教え子らが駆けつけました。その際、政治家として、また先生として当時懸案となっていた台湾人元日本兵の戦後補償問題について、解決に向けての決意が語られました。
実際、このスピーチから2ヶ月後に議員立法によって台湾人元日本兵の戦傷病者及び遺族に特定弔慰金が支給されることとなりました。
当事者である元日本兵や遺族に寄り添い、解決に向けて尽力した政治家の言葉には、厳しい制約の中で少しでも結果を出していく決意と使命感が感じられ、また一先生として愛に溢れた言葉が紡がれています。
一方で戦後75年経った今、なお「日本人」としての補償が受けられていない台湾人元日本兵に対し、心を寄せて取り組んでいる国会議員は皆無ではないでしょうか。山中のスピーチは、歴史に向き合い、様々な制約の中で真の「解決」を引き続き模索する責任が日本にあると、改めて考えさせられる内容です。
しかし先生は一足先に戦争へ行った。その時にみんなが、ここから里港まで、走って、そして「先生、頑張ってください」と言って、手を振ってくれたわけであります。私は何年前かな?15年?ここにやって来て、その時は台湾全島から来てもらえる、おそらく来てもらえるだろうと思いました。しかし、集まった人々に対して、自分が日本の国会議員であるから、必ず、みんなのことを自分が解決する、自分は、それまでは絶対に死なない。自分の命のある限り、みんなのために心からのお礼をしたい。
今までもう42年経ってしまいましたですね。戦争が過ぎてから。いけないです。日本がそういう、みんなが今日歌ってくれた「君が代」。ところが日本の総理大臣、日本の国会議員、みんなに聴かせてやりたい。みんなは、今、本当に日本は自分達のことを忘れているんじゃないだろうか、本当に補償の可能性があるんだろうか。みんな、長老も先輩も一生懸命、東京に行った人もおるけれど、日本の国会議員はそれによって動いてくれているのだろうか。そういう心配がみんなの心にはあったと思う。私は大変申し訳なく思います。
日本はそういう国であってはならない。平和のためにそしてその日本のために、ラバウル、南のジャングルの中を(?)。だから日本にとってみんなは恩人である。生きて帰った者はまだいい。しかしここを出てもういっぺん帰ってこなかった者もいる。皆さんの中にもたくさんそういう人が部落にいる。みんな日本のため、世界平和のため、と信じて散って行った人々がいる。
その人々に対して日本は今まで何をしたのか。このことは厳しく皆さんよりも前に日本人自身が日本人の心に問いかけできなければならない問題であります。なぜじゃあ、42年間も放って置いたのかということです。
今日はまず皆さんにやってもらいたいことが。それは、日本がお金を払ってもいいですよと言ってくださった中華民国の現在の政府にまず、お礼を言いなさい。国が別になったから、台湾の政府がよろしいと言わなければ金をみんなに渡す方法がない。だから蒋総統はじめ、大陸から来た人々であっても、現在の政権の人々が「もういい」。戦死した者たちの親ももうほとんどこの世の者ではない。死んでしまった、生きているその当時の、勇ましく日本のために戦った人々も、もうだんだん歳をとってきた。先生ももう来月の9日で66歳になる。
しかしみんなの問題が中華民国政府が黙認を、日本がみんなにお金を払っても「何にも言いません」と。「黙っています」。「払っていけないとは言いません」。人道上、人の道です。人間の道。人道上の問題として、大陸で日本兵から受けた傷は戦死した人、あるいはその家族が台湾に来ているけれども、その人々には何にもしない。何にもせんでいいと、蒋介石総統はおっしゃった。日本は戦に負けたんだから、貧乏になったんだから、もうお金払わんでもいいとおっしゃった。その人々がここにおる。その人々にはお金をもらっていない。それであっても、元日本であった時の従軍した軍属や軍人の皆さんにはお金を払ってもいいよという決定をされたということは、大変みんなは感謝しなければいけないと思います。
私たちが払おうと思っても国交がない国にそれを払うことはできません。しかし、日本にはどうしても払わなければならない義務があります。責任があります。これを果たさぬうちは私は死のうにも死ねない。
そして、今、日本の代議士達も政治家達もだんだん若い者がたくさん増えてきました。台湾人元日本兵補償問題って何だろう?聞いたことない、という代議士が多くなってきた。もういけない。もう今やらなければだめだ。という時がきました。
そして今言ったように国民党の中華民国政府が黙っています。見えないふりをします。そう言ってくださった。そこで、私は今の日本の総理大臣中曽根康弘。この人は私と兄弟分です。一番親しい。しかも戦争中は海軍の中尉、将校さんで、そこにいた。高雄のとこですね。高雄にいたんですよ。だからここにも中曽根総理を知っている人がたくさんいるです。そこで僕は兄弟分の総理に会って言いました。もう時代は遅れることを許さない。今年、今、中曽根総理の時に、あの高雄の港から送り出して南に、帰ってこなかった人達のことを考えて、決断をしてほしい。本当に心からそういう風に訴えました。
調査費がやっぱり一年前は(?)。今年は5000万円。何を調査するんだと。こちらの方が正確な資料がある。いっぱいある。それをなんで今さら調べる必要があるんだと。言ったんですが、やはり政府が今度は日本の側から見て形式上だけれども、調べてそれが正しい、正確だということをやっぱり役所ですからね。確認しなければならない。それに一年待ってほしい。そして来年、昭和63年。今、昭和62年ですからね。これで調査費5000万。昭和63年度にみんなに、全島の人々に支払いをする。こういうことを決定をいたしました。
まだお金を握っている大蔵省の方ではいろいろと金額の問題とか、いろいろ皆さんにお金を送る問題とか、役人の考えそうなことがありますが。いろいろ言います。しかし、結果、皆さん、よく我慢してくださった。そして、もう我慢しきれない。日本は信用できない国だった。我々を裏切った。というもうギリギリのところまできている。
昭和63年度というのは来年度です。来年の4月から始まる予算の中に、皆さんや関係者に払うお金を予算に計上します。大蔵省は、金額が多いとか、あるいは何回かに分けてもらってはどうだとか、そういうことを言う意見も持っていますが。
しかし、私はね、今日、私の相撲を教えた生徒達にあげた瓶には私の名刺が付いている。なんて書いてある。自由民主党税制調査会長。ということは、大蔵省のお金が足りなくなった時に税をとって大蔵省にお金をくれる。だから、もう政治的に日本政府が決断し、そして中華民国政府も黙認する。黙っています。これが一番の解決です。そしたらあとはもう、役人がなんと言おうと、あとは議員立法といって、私どもが法律を自分で書いて出します。私はもう、酋長と同じ政治家としては長老になった。連続当選13回、在職年数35年、大臣はもう何べんも何べんもやった。あと次は総理大臣だけ(会場から拍手)。
みんなはね、東京に来た人以外は僕が自動車から降りた時に杖をついてるのを見てびっくりしたでしょ。あの元気な相撲の強かった山中先生が杖をついて。実はこれはね、5年前にアメリカに総理大臣と一緒に会議をやった。その疲れで帰って来たあくる晩に病院に入って、3ヶ月間入院したんです。その時の名残が治ってないです。今、杖をついてるけれど、山中先生はね、決して心の杖はいらない。足は人並みになってもね、心は誰よりも誰よりも強い。誰よりも誰よりも正しいことを実行する。誰よりも誰よりも約束を守る(会場から拍手)。
信義を守る。日本が世界中を敵にまわして、しかもあんな日本は戦争をしなかったら、みんなにこのような辛い辛い42年の歳月を送らせなくて済んだ。それを考えると全く申し訳ないと思います。前来た時には私を籠に。酋長も担いだかな。籠に乗せてもらって。そして山中先生、お帰りなさい。そう言って爆竹を鳴らして歓迎してくれました。あのことを考えるとですね、皆さんの今の気持ち、ここに集まってくれる人たちの気持ちをわかっている日本人が、わかってくれる政治家がだんだん少なくなったんです。もう中曽根総理の時に解決をしなければ、もうチャンスがありません。
もうだから解決をしました。もう時間を待っていてください。来年の4月1日から支払いをします。待っててください。お金を一人当たりいくらとかね、そういうことはちょっと言えません。言えませんけれども皆さんが不満のもと42年も待って、こんなちっぽけなというお金ではありません。返ってくる日のない。ないけれども、どうぞ日本のこの罪を許してくれ。お金では人の心は買えない。買えないけれども、せめてこれで日本のことを許してください。そして、皆様どうぞ、新しい自分達の国のために日本時代と同様に働いてください。そういう気持ちを込めて、皆さんにお送りをするわけです。
私が病気しなかったら恐らくもっと早く、3年前に解決をして皆様のもとにはもうお金が届いていたと思います。ところが私がさっき話をしたように病気で倒れて非常に苦しい闘病生活をしました。政治家としてもういっぺん、山中が立ち上がらないんではないか。という人が多かった。しかし私はやり残していることがある。みんなのことをやらないと政治家をやめられない。それが私の政治家としてもういっぺん立ち直らせてくれた大きな力であります(会場から拍手)。
皆さん、本当にありがとう。よく我慢して、日本を恨みたくなるけれどもここまで我慢して、そしてじっと我慢してくれました。今度は私どもが応える番です。もうすぐです。よく我慢しました。皆さんによかったな、思わせることができる日がすぐである。このことを私がお約束するんですから間違いありません。私が法律を書くんですから間違いありません。日本の総理大臣、大蔵大臣、そして国会議員、予算編成すること約束をしておるんですからもう必ず決定をいたします(会場から拍手)。
4月1日からお払いをするためにはね、12月に来年度予算を編成、決めなければなりません。ですから、山中が言ったことはね、もうあと何ヶ月かな、8、9、10、11、12、あと5ヶ月でわかる、ね。だから曖昧なことを、できないかもしれないことをもって、私が皆さんの前に来るはずがない。みんな、できたよ。約束を守ったよ。その一言を言いたくて、今日は私はここまでやって来ました(会場から拍手)。
どうぞ、みんなこれからはね、信頼をして、やっぱり信じていいんだな、そう思ってその日を待っていてください。そして元気で、身体に注意してね、こらえてください。直接、皆さんのところに全島の澎湖島から花蓮港以下全島の部落の人々に全部お詫びが届いたら、先生は今度はもういっぺん帰って来ようかな(会場から拍手)。
その時はまた、乗せてもらってね。もうだいぶ大人になったから。持ち上げるとね、こわいから。私のお話ししたかったことは以上です。本当に皆さんは素晴らしい人間の集団です。日本人よりもっともっと偉い。私はそう思います。その偉い皆さんは誇りを持って、これからも生きていってください。私は皆さんを心から尊敬しています。ありがとう。
山中は日本統治下の台湾において、同地の里港東国民学校で教鞭をとっていた経験があり、当日はかつての教え子らが駆けつけました。その際、政治家として、また先生として当時懸案となっていた台湾人元日本兵の戦後補償問題について、解決に向けての決意が語られました。
実際、このスピーチから2ヶ月後に議員立法によって台湾人元日本兵の戦傷病者及び遺族に特定弔慰金が支給されることとなりました。
当事者である元日本兵や遺族に寄り添い、解決に向けて尽力した政治家の言葉には、厳しい制約の中で少しでも結果を出していく決意と使命感が感じられ、また一先生として愛に溢れた言葉が紡がれています。
一方で戦後75年経った今、なお「日本人」としての補償が受けられていない台湾人元日本兵に対し、心を寄せて取り組んでいる国会議員は皆無ではないでしょうか。山中のスピーチは、歴史に向き合い、様々な制約の中で真の「解決」を引き続き模索する責任が日本にあると、改めて考えさせられる内容です。
スピーチする山中貞則・自由民主党税制調査会長(当時) |
山中貞則・自由民主党税制調査会長による台湾人元日本兵の戦後補償問題に関するスピーチ全文(1987年7月1日、台湾・三地門にて)
みんな、一言で言うと、大変懐かしい。私が三地門まで上がってきて、そして、補償の問題はもちろんだけれども、私が里港東国民学校で、身体大きいから、もうだいぶやつれたけれど(?)。それで力も強い三地門の精鋭をね、相撲をとって教えたんです。先生もみんなにだいぶ投げ飛ばされた。しかし先生は一足先に戦争へ行った。その時にみんなが、ここから里港まで、走って、そして「先生、頑張ってください」と言って、手を振ってくれたわけであります。私は何年前かな?15年?ここにやって来て、その時は台湾全島から来てもらえる、おそらく来てもらえるだろうと思いました。しかし、集まった人々に対して、自分が日本の国会議員であるから、必ず、みんなのことを自分が解決する、自分は、それまでは絶対に死なない。自分の命のある限り、みんなのために心からのお礼をしたい。
今までもう42年経ってしまいましたですね。戦争が過ぎてから。いけないです。日本がそういう、みんなが今日歌ってくれた「君が代」。ところが日本の総理大臣、日本の国会議員、みんなに聴かせてやりたい。みんなは、今、本当に日本は自分達のことを忘れているんじゃないだろうか、本当に補償の可能性があるんだろうか。みんな、長老も先輩も一生懸命、東京に行った人もおるけれど、日本の国会議員はそれによって動いてくれているのだろうか。そういう心配がみんなの心にはあったと思う。私は大変申し訳なく思います。
日本はそういう国であってはならない。平和のためにそしてその日本のために、ラバウル、南のジャングルの中を(?)。だから日本にとってみんなは恩人である。生きて帰った者はまだいい。しかしここを出てもういっぺん帰ってこなかった者もいる。皆さんの中にもたくさんそういう人が部落にいる。みんな日本のため、世界平和のため、と信じて散って行った人々がいる。
その人々に対して日本は今まで何をしたのか。このことは厳しく皆さんよりも前に日本人自身が日本人の心に問いかけできなければならない問題であります。なぜじゃあ、42年間も放って置いたのかということです。
今日はまず皆さんにやってもらいたいことが。それは、日本がお金を払ってもいいですよと言ってくださった中華民国の現在の政府にまず、お礼を言いなさい。国が別になったから、台湾の政府がよろしいと言わなければ金をみんなに渡す方法がない。だから蒋総統はじめ、大陸から来た人々であっても、現在の政権の人々が「もういい」。戦死した者たちの親ももうほとんどこの世の者ではない。死んでしまった、生きているその当時の、勇ましく日本のために戦った人々も、もうだんだん歳をとってきた。先生ももう来月の9日で66歳になる。
しかしみんなの問題が中華民国政府が黙認を、日本がみんなにお金を払っても「何にも言いません」と。「黙っています」。「払っていけないとは言いません」。人道上、人の道です。人間の道。人道上の問題として、大陸で日本兵から受けた傷は戦死した人、あるいはその家族が台湾に来ているけれども、その人々には何にもしない。何にもせんでいいと、蒋介石総統はおっしゃった。日本は戦に負けたんだから、貧乏になったんだから、もうお金払わんでもいいとおっしゃった。その人々がここにおる。その人々にはお金をもらっていない。それであっても、元日本であった時の従軍した軍属や軍人の皆さんにはお金を払ってもいいよという決定をされたということは、大変みんなは感謝しなければいけないと思います。
私たちが払おうと思っても国交がない国にそれを払うことはできません。しかし、日本にはどうしても払わなければならない義務があります。責任があります。これを果たさぬうちは私は死のうにも死ねない。
そして、今、日本の代議士達も政治家達もだんだん若い者がたくさん増えてきました。台湾人元日本兵補償問題って何だろう?聞いたことない、という代議士が多くなってきた。もういけない。もう今やらなければだめだ。という時がきました。
そして今言ったように国民党の中華民国政府が黙っています。見えないふりをします。そう言ってくださった。そこで、私は今の日本の総理大臣中曽根康弘。この人は私と兄弟分です。一番親しい。しかも戦争中は海軍の中尉、将校さんで、そこにいた。高雄のとこですね。高雄にいたんですよ。だからここにも中曽根総理を知っている人がたくさんいるです。そこで僕は兄弟分の総理に会って言いました。もう時代は遅れることを許さない。今年、今、中曽根総理の時に、あの高雄の港から送り出して南に、帰ってこなかった人達のことを考えて、決断をしてほしい。本当に心からそういう風に訴えました。
調査費がやっぱり一年前は(?)。今年は5000万円。何を調査するんだと。こちらの方が正確な資料がある。いっぱいある。それをなんで今さら調べる必要があるんだと。言ったんですが、やはり政府が今度は日本の側から見て形式上だけれども、調べてそれが正しい、正確だということをやっぱり役所ですからね。確認しなければならない。それに一年待ってほしい。そして来年、昭和63年。今、昭和62年ですからね。これで調査費5000万。昭和63年度にみんなに、全島の人々に支払いをする。こういうことを決定をいたしました。
まだお金を握っている大蔵省の方ではいろいろと金額の問題とか、いろいろ皆さんにお金を送る問題とか、役人の考えそうなことがありますが。いろいろ言います。しかし、結果、皆さん、よく我慢してくださった。そして、もう我慢しきれない。日本は信用できない国だった。我々を裏切った。というもうギリギリのところまできている。
昭和63年度というのは来年度です。来年の4月から始まる予算の中に、皆さんや関係者に払うお金を予算に計上します。大蔵省は、金額が多いとか、あるいは何回かに分けてもらってはどうだとか、そういうことを言う意見も持っていますが。
しかし、私はね、今日、私の相撲を教えた生徒達にあげた瓶には私の名刺が付いている。なんて書いてある。自由民主党税制調査会長。ということは、大蔵省のお金が足りなくなった時に税をとって大蔵省にお金をくれる。だから、もう政治的に日本政府が決断し、そして中華民国政府も黙認する。黙っています。これが一番の解決です。そしたらあとはもう、役人がなんと言おうと、あとは議員立法といって、私どもが法律を自分で書いて出します。私はもう、酋長と同じ政治家としては長老になった。連続当選13回、在職年数35年、大臣はもう何べんも何べんもやった。あと次は総理大臣だけ(会場から拍手)。
みんなはね、東京に来た人以外は僕が自動車から降りた時に杖をついてるのを見てびっくりしたでしょ。あの元気な相撲の強かった山中先生が杖をついて。実はこれはね、5年前にアメリカに総理大臣と一緒に会議をやった。その疲れで帰って来たあくる晩に病院に入って、3ヶ月間入院したんです。その時の名残が治ってないです。今、杖をついてるけれど、山中先生はね、決して心の杖はいらない。足は人並みになってもね、心は誰よりも誰よりも強い。誰よりも誰よりも正しいことを実行する。誰よりも誰よりも約束を守る(会場から拍手)。
信義を守る。日本が世界中を敵にまわして、しかもあんな日本は戦争をしなかったら、みんなにこのような辛い辛い42年の歳月を送らせなくて済んだ。それを考えると全く申し訳ないと思います。前来た時には私を籠に。酋長も担いだかな。籠に乗せてもらって。そして山中先生、お帰りなさい。そう言って爆竹を鳴らして歓迎してくれました。あのことを考えるとですね、皆さんの今の気持ち、ここに集まってくれる人たちの気持ちをわかっている日本人が、わかってくれる政治家がだんだん少なくなったんです。もう中曽根総理の時に解決をしなければ、もうチャンスがありません。
もうだから解決をしました。もう時間を待っていてください。来年の4月1日から支払いをします。待っててください。お金を一人当たりいくらとかね、そういうことはちょっと言えません。言えませんけれども皆さんが不満のもと42年も待って、こんなちっぽけなというお金ではありません。返ってくる日のない。ないけれども、どうぞ日本のこの罪を許してくれ。お金では人の心は買えない。買えないけれども、せめてこれで日本のことを許してください。そして、皆様どうぞ、新しい自分達の国のために日本時代と同様に働いてください。そういう気持ちを込めて、皆さんにお送りをするわけです。
私が病気しなかったら恐らくもっと早く、3年前に解決をして皆様のもとにはもうお金が届いていたと思います。ところが私がさっき話をしたように病気で倒れて非常に苦しい闘病生活をしました。政治家としてもういっぺん、山中が立ち上がらないんではないか。という人が多かった。しかし私はやり残していることがある。みんなのことをやらないと政治家をやめられない。それが私の政治家としてもういっぺん立ち直らせてくれた大きな力であります(会場から拍手)。
皆さん、本当にありがとう。よく我慢して、日本を恨みたくなるけれどもここまで我慢して、そしてじっと我慢してくれました。今度は私どもが応える番です。もうすぐです。よく我慢しました。皆さんによかったな、思わせることができる日がすぐである。このことを私がお約束するんですから間違いありません。私が法律を書くんですから間違いありません。日本の総理大臣、大蔵大臣、そして国会議員、予算編成すること約束をしておるんですからもう必ず決定をいたします(会場から拍手)。
4月1日からお払いをするためにはね、12月に来年度予算を編成、決めなければなりません。ですから、山中が言ったことはね、もうあと何ヶ月かな、8、9、10、11、12、あと5ヶ月でわかる、ね。だから曖昧なことを、できないかもしれないことをもって、私が皆さんの前に来るはずがない。みんな、できたよ。約束を守ったよ。その一言を言いたくて、今日は私はここまでやって来ました(会場から拍手)。
どうぞ、みんなこれからはね、信頼をして、やっぱり信じていいんだな、そう思ってその日を待っていてください。そして元気で、身体に注意してね、こらえてください。直接、皆さんのところに全島の澎湖島から花蓮港以下全島の部落の人々に全部お詫びが届いたら、先生は今度はもういっぺん帰って来ようかな(会場から拍手)。
その時はまた、乗せてもらってね。もうだいぶ大人になったから。持ち上げるとね、こわいから。私のお話ししたかったことは以上です。本当に皆さんは素晴らしい人間の集団です。日本人よりもっともっと偉い。私はそう思います。その偉い皆さんは誇りを持って、これからも生きていってください。私は皆さんを心から尊敬しています。ありがとう。
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