スキップしてメイン コンテンツに移動

70余年の時を経て「日章旗」が台湾へ里帰り

70余年の時を経て、一枚の「日章旗」が台湾へ里帰りを果たしました。

里帰りを果たした日章旗
この日章旗は、先の大戦中、高砂義勇隊(台湾の原住民によって編成された部隊)隊員の深山金夫さんが出征する際、家族らから贈られたもので、旗には武運長久を祈る寄せ書きなどがされています。
深山さんの奥様とお子様から「オ父サン元氣デ」の寄せ書き
ニューギニアで戦死した深山さんの日章旗は、米兵士が持ち帰って戦後、長く米国にありました。しかし、兵士のご令孫が、米国で「寄せ書き日の丸」の遺族への返還活動を展開している非営利団体「OBON SOCIETY」に寄贈し、日台関係者の協力を得て、深山さんの故郷が台湾であることを特定。今回の里帰りに至りました。

日章旗の持ち主を特定するため、日本人の永山英樹さんと台湾人の郷土史研究家・王宗楠さんが協力して調査にあたり、旗に記されていた「ブセガン」の文字から、深山さんが台湾東部の花蓮県富世村のタロコ族であることがわかりました。その後、王さんの現地調査によって、深山さんのご息女を見つけ出すことに成功しました。

2019年12月18日、台湾南部・高雄の克朗德美術館にて、日章旗の寄贈式典が執り行われました。
日台双方から約30名が駆けつけた
上述の永山英樹さん、王宗楠さんのほか、高雄市關懷台籍老兵文化協會の吳祝榮・理事長、台湾籍元日本兵の趙中秋さんら、約30名が出席しました。
永山英樹さんは、高砂義勇隊隊員の戦時中の偉大な活躍に敬意を表するとした上で「深山さんら原住民の精神こそが世界に誇るべき『台湾魂』、『台湾精神』である」と語りました。
永山英樹さん
王宗楠さんは「日章旗の展示を通じ、より多くの台湾人の若者が日本統治時代の50年の歴史に関心を持って理解を深め、国民党政権下で行われた歴史の歪曲を正すことに長期的な意義を感じている」と話しました。
王宗楠さん
今後、日章旗は、高雄・旗津にある戰爭與和平紀念公園主題館にて保管・展示される予定とのことです。
同館を管理する上述の吳祝榮さんは筆者に対し「展示方法や時期は検討中だが、それまでは自分が責任を持って管理する」と話し、「歴史は今の政治とは切り離すべきで、しっかり日章旗は保護しなければならない」と今後の同館の使命を語っていただきました。
※2021年1月31日現在、日章旗は戰爭與和平紀念公園主題館にて展示されています。
吳祝榮さん
戦後70年以上経ち、戦争の記憶は薄れつつありますが、未だに遺品やお骨が遺族のもとに戻っていない現状を鑑みると、戦争は終わっていないと言えます。
先人への感謝の気持ちを忘れず、平和を誓って日台の民間有志が手を取り合う現場に立ち会うことができました。 (2019年12月18日執筆)
寄贈式典に集った人々

コメント

このブログの人気の投稿

あの時、台湾は日本だった(作者:生き残りの元日本兵 楊馥成)

1922(大正11)年生まれの台湾出身の元日本兵・楊馥成(よう・ふくせい)さんにエッセイ「あの時、台湾は日本だった」をご寄稿いただきました。忘れられた台湾出身元日本兵の思いを多くの日本人に知っていただきたいと思います。 楊馥成さん あの時、台湾は日本だった     あの時、台湾は日本だった。あの時、台湾住民も日本国民であった。国家存亡を賭けた太平洋戦争たけなわのあの時、台湾の若者もこぞって勇躍戦場に馳せ参じ、数多護国の生贄と散華していった。  太平洋戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、5万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医療員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで大日本帝国の為に血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士たちは、生きて祖国に帰ってきても、占領に乗りこんで来た敵側統治者からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖圧政下で、日本に加担したかどに問われて残虐な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった(私も更なる拷問の挙句、罪の判決もなしに7年間の牢獄生活を強いられた)。 況や、陣没された英霊(私も終戦の翌々年親友の遺骨を首にぶら下げて戦地から故郷に帰った)に、誰も関心を寄せる者はありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府は、なぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?  戦後まもなく沖縄本島南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はつい2016年まで見られませんでした。あの時、数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及び支那大陸の各地で、日本国民として皆様と生死をともにして戦い、赫赫たる手柄を立て、又戦場の露と消え去った無数の英霊達も「大日本帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していったはずだったのに。  これらの英霊達が今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に曽ての戦友たちとともに奉祀して慰拝致したいと、数年来、地元

台湾出身「元日本人」国籍復帰確認裁判の判決下る〜取材者として見つめてきた先輩達「最後の戦い」

1月11日、東京地方裁判所で一つの判決が下された。日本統治下の台湾に「日本人」として生まれ、今なお「日本人」としての矜持を抱き続ける3名の台湾出身「元日本人」が、戦後に本人の意思に反して日本国籍を剥奪されたことは不当だとし、現在も日本国籍を有していることの確認を求めていた裁判である。 原告は、1922年生まれの 楊馥成(ようふくせい)さん 、1927年生まれの 林余立(りんよりつ)さん 、1933年生まれの許華杞(きょかき)さんで、2019年10月4日、3名は止むに止まれぬ思いで訪日し、大阪地方裁判所にて提訴に踏み切った。未曾有のコロナ禍で裁判の進捗は滞り、その後、東京地方裁判所に移され、2年以上を経て今回の「敗訴」に至った。 原告の3名。左から、楊馥成さん、許華杞さん、林余立さん 訴えは退けられた 原告が裁判で求めていたことはただ一つ。「日本国籍を有していることを確認する」。それ以外に賠償や謝罪などを要求するものではなかった。求めているのは「国籍」という人権であり、尊厳であり、これまで「日本人」として生き抜いてきた台湾の人々の生き様そのものの確認である。 求めたことはただ一つ... 裁判という手段に踏み切った原告らの思いや決断を理解するには、台湾の歴史、そしてその土地で今日まで生き抜いてきた人々の境遇を知る必要がある。 1895年から1945年までの50年間、台湾は紛れもなく「日本」だった。日清戦争で勝利した日本は、清国との間で下関条約を締結し、台湾は日本に永久割譲された。日本はその後、台湾を「新領土」として統治してきたわけである。この50年の間に台湾で生まれた原告ら台湾出身者は「日本人」として生まれ、日本語を母語として教育を受けてきた。 また原告らと同世代の台湾出身者は、先の大戦も経験している。「日本人」として国のために身命を賭して戦い、日本の勝利を信じていた。厚生労働省社会・援護局によると、台湾出身の軍人・軍属は20万7183人で、その内3万306人が戦没している。 実際、原告の楊馥成さんは1943年に軍属に志願し、シンガポールにて南方方面の部隊に対する補給任務などに従事した。また林余立さんも海軍工員として高雄の海軍工廠で勤務、海軍整備兵として空襲の被害も少なくなかった台湾の地で戦禍を生き抜いた。 楊馥成さん 許華杞さんは軍歴こそないが、12歳まで「日本人」で

台湾で神様となった日本人を祀る小さな祠〜「もう一回さん」として愛された日本人巡査・小林三武郎

台湾北東部に位置する宜蘭県の冬山郷太和村には日本人を神様としてお祀りしている小さな祠がある。 日本人巡査・小林三武郎を祀る祠 現地では「福徳正神(土地公)」という元々、中国の民間信仰に起源を有し、台湾においても広く信仰を集める神様として位置付けられている。そして、ここでは小林三武郎(こばやし・さぶろう)という日本人がその神様になっている。 残念ながら、名古屋出身と伝えられている小林氏の戸籍謄本は見つかっておらず、遺族も特定できていないため、詳細はわかっていないが、地元の古老の話として小林氏がどのような人物か一部記録が存在している。 古老の証言をまとめた記録によると、小林氏は日本統治時代、現地で森林保護などを担う巡査として赴任した。人情味に溢れた温かい人物で、地元民に厚く慕われていたという。 小林氏の人柄が想像できる逸話が今も伝えられている。 質素で慎ましい生活を送っていた小林氏は、地元民には食糧を浪費するばかりの雄の家畜の飼育を推奨しなかった。自らが率先して種付け用の雄のニワトリやアヒル、豚を飼育した。そして、地元民の飼育する家畜が種付けを必要とした際には、自身が飼育する家畜を無料で何度も提供したという。 小林氏は家畜を専門としないため、うまくいかないことも多々あったが、「もう一回」と言って諦めずに試みた。そして、次第に現地では、小林氏のことを「もう一回さん」と呼ぶようになったそうだ。 小林氏は現地で結婚し、80歳過ぎで亡くなった。1944(昭和19)年秋に現地で行われた送別式はとても盛大で、地元民は悲しみに暮れたそうである。 戦後、日本が台湾から引き揚げた後も地元の人々から愛され続けた小林氏は、地元民によって祠が建てられ、いつまでも忘れ去られなかった。そして、1969年には現地の黄玉生氏の呼びかけで建設費を集め、再建された。 さらに2001年になると、小林氏は土地の守り神である福徳正神になったと唱えられるようになり、ついに2004年、現地の土地公廟と永福宮三山国王廟にお伺いを立てた結果、小林氏は福徳正神として祀られるようになった。 父が祠の建設者で、現在、祠の隣で茶業を営む黄添桂さんによると、神様となった小林福徳正神の存在は地元民に広く知られ、今も信仰を集めているという。黄さん自身もたびたび祠にお供え物をしており、土地公の誕生日にはお祭りも行っているそうだ。また祠