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台湾籍兵士が歩んだ数奇な歴史を学べる「戰爭與和平紀念公園」

台湾南部・高雄の旗津半島にある戰爭與和平紀念公園(戦争と平和記念公園)。
戰爭與和平紀念公園
公園内の記念館では台湾籍兵士の歴史を学ぶことができる


ここは台湾籍兵士が歩んだ数奇な歴史を学ぶことができる貴重な場所です。
自らも台湾籍兵士であった故・許昭栄氏が、台湾籍兵士の歴史を風化させず、戦没者を鎮魂するため公園設立及び慰霊碑の建立に尽力されました。

一般財団法人自由アジア協会発行の「権田猛資のフォルモサニュース」に寄稿した、許昭栄氏の死から10年経った2018年に執り行われた戦争と平和記念公園での式典に参加した際のコラム(2018年6月2日)を転載します。


許昭栄氏の死から10年、知られざる台湾籍兵士の存在

 台湾南部の高雄市・旗津半島にある「戦争と平和記念公園」。この公園は、知られざる台湾籍兵士の歴史を学ぶことができる貴重な場所だ。

 言うまでもなく、台湾はかつて日本統治下にあった。そのため先の大戦では多くの台湾人が「日本人」兵士として血と汗を流した。その数は軍人・軍属を合わせて20万人を超え、そのうちの3万人以上が戦争で命を落としている。そして戦争が終わり、半世紀にわたる日本統治時代が幕を閉じると、新たな統治者として中華民国政府が台湾に上陸した。当時、第二次国共内戦によって兵力不足に陥っていた蒋介石率いる国府軍は、台湾において兵士の募集に力を入れた。自身も台湾籍兵士であった故許昭栄氏の調査・推算によると、1万5千人の台湾人青年が国府軍に参加し、少なくとも1万人〜1万2千人が国共内戦の前線である東北、華北に投入された。そのうちの約8割が死亡し、約2千人は人民解放軍の捕虜となった。そして捕虜となった者は思想改造され、人民解放軍に組み入れられた後、朝鮮戦争で戦没した人も少なくないという。

 前述の許昭栄氏は、こういった台湾籍兵士の人権と権益を守り、戦没者の鎮魂と歴史を風化させないため、「戦争と平和記念公園」の設立と慰霊碑の建立に尽力した。しかし許昭栄氏ら台湾籍老兵の声に対し、高雄市政府や市議会は真摯に向き合っていたとは言えない。1998年6月末には土地の提供を拒む高雄市政府に対し、一週間にわたるリレー式ハンガーストライキを展開した。この時の心境について許昭栄氏は「暑い真夏、熱鉄身を焼くようなコンクリートの上に座り込み、カンカン照り灼く太陽のしたで、私達老兵は最後の『台湾魂』と『日本精神』を奮って、『苦肉計』に挑んだ」と記している。結局、当時の高雄市長であった呉敦義氏(現・中国国民党主席)は土地の提供を承諾し、2005年には敷地内に「台湾無名戦士紀念碑」が建立された。しかし、その後、経費の問題から公園の設立が遅れたほか、公園の名称から「戦争」の文字を消す、或いは「八二三砲戦紀念公園」と改称するよう要求され、台湾籍老兵の初志は踏みにじられたと言える。そして2008年3月、高雄市議会は公園の名称から「戦争」を取り、単に「平和記念公園」とする決議を採択した。これに憤怒し失望した許昭栄氏は、馬英九前総統の就任日でもあった2008年5月20日、公園予定地の敷地内で抗議の焼身自殺をした。

 許昭栄の死から10年が経った2018年5月20日、「戦争と平和記念公園」では台湾人戦没者の慰霊と許昭栄氏を追悼する式典が執り行われた。当日は台湾籍老兵や日本人を含む約50名が出席し、台湾人戦没者と許昭栄氏に哀悼の誠を捧げた。

 異なる軍服をいくつも着させられ、異なる「何か」のために戦うことを強いられた台湾籍兵士。この存在について日本でも台湾でも十分に顧みられてきたかはいささか疑問である。特に「日本人」兵士として日本国のために戦った台湾籍日本兵の存在は日本人にとって決して無関係ではない。果たして日本政府は十分な補償と敬意を払ってきただろうか。答えは否と言わざるを得ないだろう。

 台湾海峡から吹き付ける海風にあたりながら、許昭栄氏の志、そして知られざる多くの台湾籍兵士の思いに心を寄せ、今一度向き合いたいと思った5月20日であった。

許昭栄氏が焼身自殺した場所に立つ慰霊プレートに献花する人々

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