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台湾で神様となった日本人を祀る小さな祠〜「もう一回さん」として愛された日本人巡査・小林三武郎

台湾北東部に位置する宜蘭県の冬山郷太和村には日本人を神様としてお祀りしている小さな祠がある。
日本人巡査・小林三武郎を祀る祠
現地では「福徳正神(土地公)」という元々、中国の民間信仰に起源を有し、台湾においても広く信仰を集める神様として位置付けられている。そして、ここでは小林三武郎(こばやし・さぶろう)という日本人がその神様になっている。

残念ながら、名古屋出身と伝えられている小林氏の戸籍謄本は見つかっておらず、遺族も特定できていないため、詳細はわかっていないが、地元の古老の話として小林氏がどのような人物か一部記録が存在している。

古老の証言をまとめた記録によると、小林氏は日本統治時代、現地で森林保護などを担う巡査として赴任した。人情味に溢れた温かい人物で、地元民に厚く慕われていたという。

小林氏の人柄が想像できる逸話が今も伝えられている。

質素で慎ましい生活を送っていた小林氏は、地元民には食糧を浪費するばかりの雄の家畜の飼育を推奨しなかった。自らが率先して種付け用の雄のニワトリやアヒル、豚を飼育した。そして、地元民の飼育する家畜が種付けを必要とした際には、自身が飼育する家畜を無料で何度も提供したという。

小林氏は家畜を専門としないため、うまくいかないことも多々あったが、「もう一回」と言って諦めずに試みた。そして、次第に現地では、小林氏のことを「もう一回さん」と呼ぶようになったそうだ。

小林氏は現地で結婚し、80歳過ぎで亡くなった。1944(昭和19)年秋に現地で行われた送別式はとても盛大で、地元民は悲しみに暮れたそうである。

戦後、日本が台湾から引き揚げた後も地元の人々から愛され続けた小林氏は、地元民によって祠が建てられ、いつまでも忘れ去られなかった。そして、1969年には現地の黄玉生氏の呼びかけで建設費を集め、再建された。

さらに2001年になると、小林氏は土地の守り神である福徳正神になったと唱えられるようになり、ついに2004年、現地の土地公廟と永福宮三山国王廟にお伺いを立てた結果、小林氏は福徳正神として祀られるようになった。

父が祠の建設者で、現在、祠の隣で茶業を営む黄添桂さんによると、神様となった小林福徳正神の存在は地元民に広く知られ、今も信仰を集めているという。黄さん自身もたびたび祠にお供え物をしており、土地公の誕生日にはお祭りも行っているそうだ。また祠を訪ねる日本人も少なくないという。

小林氏については口述の記録が残るのみで、その詳細は明らかではないが、現地でその功績は語り継がれ、台湾の神様となって信仰されている。
小林氏は「福徳正神」として信仰を集めている

【関連文章】
小林三武郎:「もう一回さん」と呼ばれた巡査

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