スキップしてメイン コンテンツに移動

未知の決戰秘密武器「櫻花、秋水」 と台灣少年工(作者:台湾少年工 東俊賢さん)

台湾少年工時代の東俊賢さん


1942年12月8日真珠湾攻撃,緒戰破竹の如し,連戦連勝, 舉國歡喜沸とう!
しかし一年足らずで米軍は,制海空權奪回, 空母飛機で反攻日本本土に迫つた。

日本海軍は飛行機増産計劃で,高座附近の土地徴收高座海軍工廠を設立したが國內工員缺乏,台湾向日本教育を受けた少年に,すべて官費で勉強しながら飛行機造り, 旧制甲種工業學校或專門学校卒の資格が取得出来る優遇條件で,海軍少年工8400人募集し,内地で飛行機増産に従事した。〈三菱、中島、等飛行機生産工場にも派遣した〉

僕は台南商業学校在學中, 飛行機と物造りに興味,工科学校に転じようとに親許可無し無断で印子を押して志願した。

1944年5月基陸港から御用船淺間丸で〈15000ton〉日本に渡つた。 航海中敵潛察知¸機雷3個海中投入,爆発の水柱が高く噴き出し,船は搖れ動き吃驚し怖かつた。航海中每日緊急警報が鳴ると,救命袋を背おつてボ一卜に乘りこむ非常訓練が行なわれた。幸い無事日本にたどり着いた。

一週間後追濱海軍航空技術廠派遣され, 東京灣に面した町屋寮に住んだ。海軍管理方式で, 艦船勤務帰りの,木村寮長は非常に嚴しく, 小事欠点見つかると團体体罰,對向ピンタ、腕立伏せ等改心棒でたたかれた。

海軍航空技術廠は山本五十六が,飛行機國產化を唱え昭和初期に創立,全国の大学、專門学校航空系卒を集めた研究人員2000多人,工員3万人日本唯一無二の航空研究所。

入廠手続で飛行機部第四工場, 聞いた事のないガス熔接組に編入された。工場內は空席だらけ,僕達18人は代りの重要人員で¸すぐ嚴しい熔接技術訓練が, 予定進度の下で,組長自づから指導,理論と鐵片の熔接實習始まつた。成績評価で¸僕を含む三人が¸選出特殊金屬熔接技術を習つた。熔接は非常重で要な過程で 要求は嚴しかつた。

太平洋戰爭末期, 日本の謂ゆる「絕對國防圈」は米軍の突破で潰れ,日本本土は危険状態,軍司令部「捷號作戰」計劃の新作戰方針は, 劣勢戰局の挽回で,新武器開發出現を非常に期待していた。

「櫻花」は太田正一少尉が南洋戰地で海空戰を目撃¸日本飛行機損失甚大。彼は未熟練飛行員でも操從可能な人間爆彈で敵艦轟沈を考案した。この構想を軍当局から空技廠に回わされ¸和田廠長が設計担当の三木忠直技術少佐に, その說明を聞かせたが, 帰還不可能な飛行機であり¸技術の冒涜であると反対した。

軍司令部は戰局の需要により,三木に設計に強硬命令, 彼は反對したが命令に軍人としてそむなかつた。十人の組識を編成,外界と完全に隔離した極秘の室內で不眠不休の設計,九月中試作機完成を目あてに進行した。僕達は密集訓練の後期,本計劃に出合つた。

學徒動員された千葉高女學生が半成品を木箱で続続持つて来る,「MXY7」標示の傳票あり, 最優先熔接物件で, 遅延べからず。【櫻花試作機】の早期完成で, 徹夜残業の為工場內に,三疊の假床を作り深夜間食後半時時間假寝用。

上司は僕に「非常突破」と赤文字のついた特別通行証を渡され, 戒嚴令でも通行無難¸迅速に熔接完成部品を, 極秘工場現場にとどけ,絶対秘密で外に洩らすべからずと口止めされた。僕は唯一の台湾少年工で極密工場に出入出来た幸運者でした。

最初は円形の機体のみで,逐次主翼〈木製〉、尾翼が追加され¸全長6.07m,5m、高1.1mの小型飛行機になつた。組立人員は瀕ぱんに出入する可愛い台灣小年と良き友達になり¸組立用梯子をよじ登り¸操縦席内部を窺くことが出来た。狹い單座操縱席,操縦桿前のパネルには簡単な¸速度表、高度表が備えられていた。操縦席前の機体頭部には,1200Kgs徹甲爆彈装着,尾部、主翼の下側に最先進技術的Roket推進器共三本で 時速650公里を出す事が出来た。

機頭兩側には櫻の花が絵がされ¸生命惜しまぬ盡忠報國のしるしである。

車輪無き此の小型機に僕疑惑僕。試作機完成後, 勅使と特攻隊代表が視察に¸咖啡色特攻隊製服に絹質白ぃマフラ,頭上には日の丸と神風と入つた鉢巻の隊員二人が工場内部通路から,熔接工場に入つて来た。現場作業中の僕達に対し「皆様ご苦労さまでした¸今から敵撃滅に行つて来ます」海軍式敬礼¸全工場仕上組を含む全員が立ち上って見送つた。若い紅顔の美少年下士官特攻隊員を見て¸僕も憧れの飛行士で特攻隊になつていたでせう?

【櫻花】は本廠で200機製造, もともと菲律賓レイテ前線に送り,來襲の米軍機動部隊艦隊を撃沈上陸を阻止する計劃でした。1944年11月28日, 當日正午71000ton最大航空母艦「信濃Shinano」に桜花50台積み込み「吳海軍工廠」で徹甲爆彈裝着予定,首航の信濃が¸東京灣海上で移動していたのを見た〈少数目撃者の一人〉。出港後夜潮の岬で米軍潛水艦2000噸級のフイシユに撃沈された〈未公開秘密〉。第二回櫻花搭載空母「雲竜」も途中宮古島附近で敵潛に撃沈された。

レィテ前線に送る企劃は破滅した。桜花の生產は第一航空廠〈霞浦〉に移し継続合計750機製造。

1945/3/21日18機群を成し初出擊で米軍レーダに発見され,大群の敵戦鬥機羣に¸襲われ全軍覆滅。しかし【櫻花】は一般特攻機と異なり,米軍艦驅逐艦「マンブ一卜エ一ブル」攻擊で瞬間爆発船体真二つに裂け轟沈された。別艦名「Mullany」驅逐艦も桜理の花攻撃を受け¸大損傷戰鬥能力失い戰後台灣海軍に売り渡し「慶陽」と改名痕跡が残つている。別機の桜花は掃海駆遂艦「ジヱフア一ス」割り切れない突入命中せず¸右舷50ヤ一ドの海面で爆発衝撃で上甲板を突出させた。

米軍は桜花の攻撃殺傷力を非常に恐れ, 新武器Variable砲彈、F6F戦鬥機で嚴密なる防禦網で防禦,櫻花の突破は至難でした。

戦後逗子で二回国宝三木忠直博士とお合いした。最初は桜花模型を持つて, これは米兵が本土に進駐した時もらつた米国製で¸BAKAと称した桜花を恐れた教育資料だと話して下さつた。話の中で心の中で若者を犠牲させた桜花に今未だ割り切れないとつくづく感じた。

決戰秘密武器【秋水】は地面高射砲や雷電戰鬥機も一万m以上高空にとどかずB29撃墜出来ず,當時ドイツのロケツ卜戰鬥機Messechmit Me163, は日本が欲しく, 日独同盟國にもかかわらず¸ドイツは最高秘密で軽がる日本に技術援助を與えなかつたが¸日本は南洋で獲得した戦略物資をドイツ供給すると¸やつと技術資料を提供¸万一を予測二隻の潛水艦で日本に運送したが¸不幸にも敵潛に撃沈され¸悉く水泡に帰した。廠內会議で技術討諭結果まとまらず¸,和田操中將廠長は如何なる困難ありとも¸日本自已開發すべきと結論づのけた。

ロケツ卜で秋水が三分半で一萬mに達しB29擊墜する, 試作機を陸海軍技術協力¸三菱で試作機製作, 空技廠で審查,7/7日追濱海軍飛行場テス卜飛行と予定した。テス卜前の總檢查で後輪の太い支持腳に,電氣熔接のpin hole を発見¸ 瓦斯熔接工場に運んで,緊急復員で瓦斯熔接處理,工場長、組長が檢討後,組長が僕を助手と命令,瓦斯吹き管二本使用の火焰で太い脚に加熱,自づから熔接をすませ,【秋水】テス卜飛行に間に合せた。広場で秋水テス卜飛行を見学¸秋水は高く舞い上つたが急落下した。

再度のテスト飛行予定の8月中旬に終戰, 秋水未成功, しかし軍部は盲目計劃, 本年1300、明年3600機と, 僕等は風雨大雪問わず徹夜残業は終戰迄続き,每食白米無き大豆雜糧におかづは海人草,定量でお中はへり, 凍傷で足は赤切れ出血,勝利を期待,力のある限り¸お国日本の為に盡したが 敗戰とはあまりにも皮肉で, 感慨無量。

終戦時町屋寮で別れる時¸僕だけに下さつた記念写真を頼りに¸空技廠当時輔導官吉増中尉〈戦後海軍自衛隊航空一佐所長〉とお合いしたら¸残業でおヤツとしてくれた海軍用乾バンは彼が夜中巡視中台湾少年工のまじめな働きぶりに感動し¸上層部に交渉配つてくれた情け話に感動した。

復員で台湾に帰ると旗色は変り,和平無きいぱら苦難の道が続く!

コメント

このブログの人気の投稿

あの時、台湾は日本だった(作者:生き残りの元日本兵 楊馥成)

1922(大正11)年生まれの台湾出身の元日本兵・楊馥成(よう・ふくせい)さんにエッセイ「あの時、台湾は日本だった」をご寄稿いただきました。忘れられた台湾出身元日本兵の思いを多くの日本人に知っていただきたいと思います。 楊馥成さん あの時、台湾は日本だった     あの時、台湾は日本だった。あの時、台湾住民も日本国民であった。国家存亡を賭けた太平洋戦争たけなわのあの時、台湾の若者もこぞって勇躍戦場に馳せ参じ、数多護国の生贄と散華していった。  太平洋戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、5万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医療員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで大日本帝国の為に血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士たちは、生きて祖国に帰ってきても、占領に乗りこんで来た敵側統治者からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖圧政下で、日本に加担したかどに問われて残虐な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった(私も更なる拷問の挙句、罪の判決もなしに7年間の牢獄生活を強いられた)。 況や、陣没された英霊(私も終戦の翌々年親友の遺骨を首にぶら下げて戦地から故郷に帰った)に、誰も関心を寄せる者はありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府は、なぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?  戦後まもなく沖縄本島南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はつい2016年まで見られませんでした。あの時、数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及び支那大陸の各地で、日本国民として皆様と生死をともにして戦い、赫赫たる手柄を立て、又戦場の露と消え去った無数の英霊達も「大日本帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していったはずだったのに。  これらの英霊達が今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に曽ての戦友たちとともに奉祀して慰拝致したいと、数年来、地元...

「里港藍家」の栄枯盛衰と激動の台湾史

 台湾の名門一族「里港藍家」。300年近い歴史を有する藍家は、かつて台湾南部の屏東一帯で影響力を誇った。日本統治時代には日本と密接な関係を築いており、同家の藍高川は日本の台湾統治に貢献して台湾総督府評議会議員に任命され、天皇陛下から勲章も授与された。息子の藍家精もまた、親日の汪精衛政権樹立を工作した特務機関として知られる「影佐機関(梅機関)」で勤務経験があり、汪政権の少将にも就任している。そんな「華麗なる一族」に生まれた藍昭光氏は、その家柄ゆえ、波乱万丈な人生を余儀なくされた。  藍昭光氏は1930(昭和5)年、京都の北白川で生まれた。3年ほど京都で生活したが、父の家精が京都帝国大学大学院を退学したことを契機に、台湾南部の屏東に居を移した。当時、藍家の邸宅があった屏東には、台湾製糖株式会社が本社を構えていたほか、陸軍第8飛行師団の飛行場があり、比較的、内地人(日本人)が多く暮らしていた。そのため昭光氏は幼少期から日本人コミュニティの中で育った。  屏東の小学校に進学した昭光氏だったが、父の上海赴任に伴い、上海の北部第一小学校に転校、さらに祖父の高川が逝去すると再び台湾に戻り、今度は台北の建成国民学校に転校した。卒業後は台北第一中学校に次ぐ名門校だった台北第三中学校に進学したが、大東亜戦争の戦況悪化で、2年生に進級した頃には勉強どころではなかった。1945(昭和20)年4月には学徒兵として召集され、日本の勝利を確信して訓練に励む毎日を送った。  裕福な家庭で育ち、日本人との交流も多かった昭光氏は、間違いなく他の多くの本島人(台湾人)とは全く異なる日本統治下の台湾を生きてきた。しかしそれは一方で、戦後の国民党政権下の台湾では苦しい立場を強いられることを意味した。実際、国民党政府が台湾を接収してからしばらく経った頃、父に逮捕状が出された。「敵国」であった日本との関係の近さが理由だったと考えられる。1949年、昭光氏は父と兄とともに台湾を脱出し、日本へ亡命を果たす。購入した漁船に乗り14日間の命懸けの航海だった。日本では、父は台湾独立運動に奔走し、昭光氏は京都大学法学部に進学した。卒業後は東京の貿易会社に就職し、結局、再び祖国・台湾の土を踏むには東京オリンピック直前の1963年まで待たなければならなかった。  藍家の栄枯盛衰は、まさに激動の台湾史そのものである。そんな名家の...

台湾で神様となった日本人を祀る小さな祠〜「もう一回さん」として愛された日本人巡査・小林三武郎

台湾北東部に位置する宜蘭県の冬山郷太和村には日本人を神様としてお祀りしている小さな祠がある。 日本人巡査・小林三武郎を祀る祠 現地では「福徳正神(土地公)」という元々、中国の民間信仰に起源を有し、台湾においても広く信仰を集める神様として位置付けられている。そして、ここでは小林三武郎(こばやし・さぶろう)という日本人がその神様になっている。 残念ながら、名古屋出身と伝えられている小林氏の戸籍謄本は見つかっておらず、遺族も特定できていないため、詳細はわかっていないが、地元の古老の話として小林氏がどのような人物か一部記録が存在している。 古老の証言をまとめた記録によると、小林氏は日本統治時代、現地で森林保護などを担う巡査として赴任した。人情味に溢れた温かい人物で、地元民に厚く慕われていたという。 小林氏の人柄が想像できる逸話が今も伝えられている。 質素で慎ましい生活を送っていた小林氏は、地元民には食糧を浪費するばかりの雄の家畜の飼育を推奨しなかった。自らが率先して種付け用の雄のニワトリやアヒル、豚を飼育した。そして、地元民の飼育する家畜が種付けを必要とした際には、自身が飼育する家畜を無料で何度も提供したという。 小林氏は家畜を専門としないため、うまくいかないことも多々あったが、「もう一回」と言って諦めずに試みた。そして、次第に現地では、小林氏のことを「もう一回さん」と呼ぶようになったそうだ。 小林氏は現地で結婚し、80歳過ぎで亡くなった。1944(昭和19)年秋に現地で行われた送別式はとても盛大で、地元民は悲しみに暮れたそうである。 戦後、日本が台湾から引き揚げた後も地元の人々から愛され続けた小林氏は、地元民によって祠が建てられ、いつまでも忘れ去られなかった。そして、1969年には現地の黄玉生氏の呼びかけで建設費を集め、再建された。 さらに2001年になると、小林氏は土地の守り神である福徳正神になったと唱えられるようになり、ついに2004年、現地の土地公廟と永福宮三山国王廟にお伺いを立てた結果、小林氏は福徳正神として祀られるようになった。 父が祠の建設者で、現在、祠の隣で茶業を営む黄添桂さんによると、神様となった小林福徳正神の存在は地元民に広く知られ、今も信仰を集めているという。黄さん自身もたびたび祠にお供え物をしており、土地公の誕生日にはお祭りも行っているそうだ。また祠...