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銀髪が語る日本語世代教育の思い出(作者:台湾少年工 東俊賢さん)

東俊賢さん

1895年〈明治28年〉日本が日清戦爭で勝利し4月17日下関の料亭春帆楼で講和条約,5月17日条約発効¸正式に台湾割譲すると, 教育面で台湾總督府は明治維新最初米国留学生伊沢修司を学部長と任命した。彼は無料義務教育を唱え, 日本語教育を普及させ同化台湾統治を主張した。

日本語を教える為¸日本から6人の若人教師を呼び寄せ¸台北士林芝山巌で¸国語伝習所設立21人の生徒を集め¸台湾最初の日本語教育の発祥地でした。1896年1月1日元旦祝いで台北城内に行くと混乱に遭い, 学校に 引き帰る途中,数百人の 反日派に遭遇殺害された。【六氏先生】記念として神社、歌が作られ台湾の子供達が歌った。

六氏先生事件後の1896年に国語伝習所設立更多く,日本語教育を行ない日本人に同化する政策で¸1898年.7月勅令を以て台湾人学生の通う学校を公学校と称し,日本人学生入学の小学校と区別し, 国語普及に務めた。

1899〈明治32年〉南北双壁と称する¸南に台南師範学校、北に台北師範学校設立, 優秀教員を養成し公学校教育の発展に大役割を果せた。

其の後概ね伊沢先生の意見に基いた国語普及政策は,台湾總督府は産業開発に,基本的実業技術人材の養成に必要な事で,農工商の実業教育にふさわしい, 作文、読書、習字科目を加え, 教科書内容には歴史、地理、農工商知識増加修正した。かつ台湾の悪い習慣¸阿片、纏足、衛生等の改善を強要した。1918年には公学校在学人数が十萬人を超え¸本島人子供の進学需要で中等学校の設立に迫まれた。

中等学校には日本人学校に第ー中学校、台湾人学校には第二中学校と差別した〈台中一中例外台湾人学生〉。しかし中学校進学には日本人学生優先入学の為¸本島人学生には倍以上の努力が必要でした。

明治43年生れの父は完壁な日本語教育の公学校卒業すると台南ミッションスク一ル長栄中学〈英国人創設〉に進学したが,台湾当初の農業専修学校が設立したので農家の祖父は途中で転校させた。父の通信簿を見ると, 学業科目:講読、作文、書法、算術、珠算、法制経済、作物。園藝、土壤、肥料、畜産、養蠶、林業、農産製造、作物病虫害、実習技能等有り一等賞で昭和三年卒業, 南化庄長の拔擢で産業組合に入社, 日本語流暢¸書字秀麗, 文章達者珠算にすぐれ, 物の見方、考え方も日本式で¸組合の発展に好評で昭和13年春,優良組合人員に選ばれ代表として日本視察旅行¸天長節には二重橋、代代木で天皇陛下の姿を仰いだ。組合勤務の余假は巧みな農業技術で¸果樹園の果物の接木や土壌の改良で果実を大きく実らせ¸附加価値の儲けと貯蓄で農園、田畑を拡大し経濟基礎を固め村の人を凌ぐ生活で,子供教育に力を注いた。 

父は終戦迄「家の光」、「現代」雜誌購読¸「早稻田通信講座」を通じ欠かさず学習¸日本語教育の影響を熟知出来る。

公学校入学前に連合艦隊軍艦が国力宣揚で高雄港に入口日本教育を受けた父は祖父と僕を連れ,3時間かかる山道から旗山迄, 乗換へバスで見学に¸大きな大砲に見とられて迷子,水兵に連れられて父にとどけられた。

教育重視の父は数え年七歳で山道1時間半道程の遠き南化公学校僕を連れて入学, 先生が手を引いて教室の座席に坐ると同級生はランドセルに運動靴をはいた僕の姿を異様な目つきでギョロギョロ¸吃驚早速靴を拔いた,先生はそれを見て靴を履きなさいと言はれたが強情を張った。 

翌日から同級生同様裸足に台湾笠をかぶり, 風呂敷に本を包み肩にかけ¸毎日鄰近所の上級生に連れられ¸国旗掲掲、皇居遥拝の朝礼に間に合わせた。

南化公学校所在地はタパニ事件発生の派出所の鄰近にあり¸校舎は倉庫見たいな木造平屋建,で, 板で六間区切の教室は一年生から六年生迄,同じ屋根の下で日本語教育を受けていた。全校生百人足らず¸正式教員は二人日本人校長と若い日本人先生〈支那事変で出征〉だけで, 其の他は本島人代用教員でした。公学校教授科目は規定により「修身」「国語」「唱歌」「体操」「作文」「読書」「習字」「算術」八科目。

入学後台日語混ぜりで女先生からアイウヱでオと簡単挨拶が教へられた。その後、総督府公学校用國語讀本巻一から簡單な文章が教えられ, 会話も出来るようになつた。

無声白黒映画を見る為,二時間半道程の玉井へ,入場料僅か十錢でしたが,参加者20人だけ, 農村の貧しさがわかる。

昭和12年支那事変勃発, 唯一の日本人先生が応召奉公袋を下げ出征を 小旗をふりながら見送つた。 

17任小林躋造總督就任後皇民化で改姓名、宗教改信政策は文化風俗の默殺で人民の反抗¸国会で大問題となった。

昭和14年父は「可愛い子は旅をさせよ!」一人息子の孫を手放しに反対した祖父を押し切つて¸十歳の孫を遠き台南の下宿にあづけ¸父母離れで單身孤独の生活をさせた¸これは日本教育を受けた父の日本式きっぱり教育法で, 僕の人生に大きな影響を及ぼした。

市内の末広公学校に転校試験に合格入学した。当校は台北高等学校尋常科に台湾人学生三人〈王育霖氏等〉合格させ, 在校生3000余名, 紙芝居で有名な著名校である。

立派な校舍と校舎の間に狹む花園¸校門には忠君愛国.勉学励ましの象徴,楠木正茂、二宮尊徳二基の銅像有つた。

末広校は三葉入五ツボタン学生服、三本赤筋に三ツ葉入帽章、短ズボンに黒い靴,毎朝服装、衛生檢査あつた。

田舍なまり下手な国語の僕は田舍っぺえと嘲笑され悪童達に苛められた。期末試驗後鉛筆を右ポケッ卜に入れ¸一人でしよんぼりと運動場に立つていたら¸餓鬼大将が拳骨で横腹めがけて殴りこみ運悪くポケッ卜の尖つた鉛筆蕊に刺された。

先生に僕が傷をつけたと逆に訴えたので¸王先生に呼び出され大勢の前で,ビクビク下手な国語で辯解出来ず¸先生は名望家の子供であるが故, 鵜呑みで不平にも操行「丙」とつけられた。悔しく父に郷里に歸りたいと泣きついた。

父は「田舎、山の子は人一倍にしつかり勉強し¸体を鍛へ強くなったらバカにされない」と激励された。後日僕はよく勉強し, 体も強くなり,矢野サ一カス飛入で小人腰投げ人気になり¸餓鬼大将は威勢を失ない中等学校にも上れなかつた。四年生〈皇紀2600年=1940〉に上ると新しい先生にかわり¸えん罪の暗闇から拔け出した。

掛算九九が暗記させられ、年月の大小にはニシムクサムライ=即ち2月、4月、6月、9月、士月と容易な言葉で覚えさせられ¸九月十日〈クガツトウカ〉頃颱風が接近すると教えられ,ソロバン、度量衡〈CGS〉も始めて習つた。

この年東映映画《燃ゆる大空》が上映¸飛行機と少年航空兵のシンで憧れ人生航路に大きく影響した。

体操科目は強い体を鍛練する為¸飛び箱、金捧、水泳、走り等重視訓練させられ¸陸上競技選手に選ぱられると

20メ一夕に腰掛を並び, 飛び走る訓練された。

11月3日の明治節台南州運動大会で¸同級生王君は100メ一タ13秒の州記録獲得¸リレー競争には吾等優勝カツプもらつた。

毎日午前中には全校生運動服姿で20分間歩く練習¸「歩け歩け南へ北へ」のレコ一ドに合せ胸を張り大手を振り¸大国民の誇りとして歩けと訓示された。

科学教育重視で理科室、工作室が設けられ¸色色な実験が出来た。音楽では小学校唱歌故郷、仰げば尊し等,軍歌太平洋行進曲、天に代りて等数多く教られ,兒童合唱団で大東亜戦爭一週年記念日には凱旋等歌い台南放送局で放送した。

修身科目は米田校長自づから疉の上に正坐で日本精神、大和魂をし込れた。教育勅語の「父母に孝兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己れを持し博愛衆に及ほし学を修め業を習ひ…………」は忘れなかつた。

末広校は知識以外に精神, 衛生、規律教育があり,当時日本語世代教育の典型的な名校でした。

1941年には小学校、公学校共に国民学校と改称『一視同仁』と唱えた。

昭和18年4月商業学校に入学, 戦局は日増し厳しくなるも台湾には空襲も無く平穏無事, 未だ競馬もあり,競馬券賣り、統計、会計、簿記処理で実習費をもらつていた。

珠算天皇奨を誇る南商は, 貿易人材の育成に外国語の 英語、マレ一語、北京語に力を注いた特色の学校でした。

強い兵隊になる為毎日2000メ一タ初級体力檢定9分目ざして走り,伝令による深夜の劔道寒けい古があつた。

夏休みには中等学校学徒動員で,台南練兵場の丘を鍬でならし予備滑走路を作るのに猛暑で中暑に倒れた。日本語世代は戦後も日本語を活かし¸日台親善交流,産業等の発展に多大な影響を及ぼした。



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