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日本人飛行兵を「神様」として祀る飛虎将軍廟〜信徒の厚い信仰と深い愛に触れる

台湾南部・台南の郊外に建つ「鎮安堂・飛虎(ひこ)将軍廟」。
ここでは、先の大戦で戦死した日本人飛行兵が神様として祀られ、台湾人の信仰を集める場となっています。
市内でホテル「日升大飯店」を経営する信徒の郭秋燕さん。
「飛虎将軍」という名で祀られているのは、大日本帝国海軍航空隊少尉の杉浦茂峰(すぎうら・しげみね)氏です。

杉浦氏は、1923(大正12)年11月9日に茨城県水戸市で生まれ、先の大戦中、零戦のパイロットとして1944(昭和19)年10月12日の台湾沖航空戦に出撃し、20歳の若さで命を落としました。

杉浦氏が搭乗していた零戦は、敵の攻撃によって尾翼から発火し、海尾寮という大きな集落に向けて急降下したそうです。

その様子を目撃した人によれば、もしすぐに落下傘で飛び降りていれば杉浦氏の命は助かったかもしれないとのこと。しかし、杉浦氏は操縦桿を握り続けて、機首をあげて零戦が集落に墜落することを回避しようとしました。

その後、集落への落下を回避した後、杉浦氏は飛び降りましたが、敵の機銃掃射に遭い、畑の中に落ちて戦死されたそうです。

履いていた軍靴に「杉浦」の文字があったことから、戦死した人物が杉浦茂峰氏であることが判明しました。

杉浦氏が地元の「神様」となったのは日本の敗戦後のこと。終戦後しばらくして、地元民が白い帽子を被り、白い服装を身にまとった人物が養殖池付近で徘徊している様子を目撃しました。

他にも目撃者が現れ、当初は泥棒だと疑っていましたが、地元民の夢枕にも現れることがあり、人々は恐れ始めて、地元で信仰を集める「保生大帝」に尋ねました。その結果、その人物が、先の大戦の戦死者であることがわかりました。
杉浦茂峰氏。写真は杉浦氏のお姉様が戦後、台湾に持ってきたもの
廟の内部
こうして地元の人々は、戦死者が、戦時中に集落を守るため自ら犠牲になった杉浦茂峰氏に違いないと考え、1971年に杉浦氏に感謝するため小さな祠を設けました。

そして、1993年には現在の廟を建立し、今もなお、地元の人々の信仰を集める「神様」となっています。

現在、ボランティアで飛虎将軍廟の顧問を務めている郭秋燕さんによると、同廟では毎日、朝夕の2回、祝詞として『君が代』と『海ゆかば』を流しており、また日本人参拝者が来た際にもそれぞれ流しているそうです。
日本語が堪能な郭さん。ホテルに宿泊してご案内いただくことも可能だ
また、飛虎将軍が「ヘビースモーカー」であることから、タバコのお供えもしており、タバコの煙が御神体を安置している内側の方へ流れている場合には、飛虎将軍がいらっしゃることを意味しているとのことです。

2016年9月には、飛虎将軍のご神像は杉浦氏が生まれた茨城県水戸市に里帰りを果たしました。
その際、科学では説明できない「不思議」なことがいくつも起きたと、郭さんは目を潤ませながら話してくださいました。

例えば、水戸から東京に向けて特急電車で向かう際、電車が緊急停車をしたそうです。車掌に確認したところ、詳しい原因は不明とのこと。ところが窓の外を見たところ、その停車した場所は、かつて杉浦氏が駐屯していた霞ヶ浦だったとわかりました。

他にも、飛虎将軍が「富士山を見たい」とおっしゃっていたことから、郭さんら一行がフェリーから富士山を眺めていた際、突如、二機の戦闘機が富士山と一行の間に現れ、数十秒後に最初に現れた方角へ引き返していったそうです。

このような不思議なことに遭遇した郭さんは、自らが同廟に関わるようになったのも何かに導かれているからであり、今後も自然体で飛虎将軍と向き合っていくとのことです。

また郭さんは「飛虎将軍がお一人で寂しいから、今後もたくさんの日本人に参拝いただきたい」と言い、日本人参拝者には「少しでも長く廟に留まり、飛虎将軍と日本語で会話してほしい」と願います。そう話す郭さんの語気や表情からは飛虎将軍に対する厚い信仰と深い愛が伝わってきました。

台湾の地で神様となり信仰を集めている一人の日本人。廟では台湾の信仰文化について考えることができます。台南を訪れた際はぜひ参拝してみてはいかがでしょうか。

<飛虎将軍廟>
住所:台南市安南區大安街730-1號
日本語サイト


<日昇大飯店>
住所:台南市尊王路126號
日本語サイト

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