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日本から台湾へAZワクチン124万回分を無償提供〜真似できない、見返りを求めず助け合う特別な関係

6月4日午後、成田国際空港発-桃園国際空港行きの日本航空JL809便が124万回分の英アストラゼネカ(AZ)製ワクチンを搭載して台湾に到着した。これは、5月以降、新型コロナウイルスの感染が拡大している台湾に対し、日本から無償提供されたものである。 

台湾は今、国産ワクチンの開発を進める一方で、当面のワクチン不足に悩まされている。5月26日には年初に購入予定だった独ビオンテック社製のワクチンが中国の介入によって頓挫したことを蔡英文総統が明らかにしており、ワクチンの調達は難航している。そうした中で今回、日本が支援の手を差し伸べたことは大きなインパクトを伴って台湾で歓迎されている。 

今回提供されたワクチンは、日本が国内供給用に調達したAZワクチンである。台湾の新聞「自由時報」は4日、このニュースを一面トップで報道している。消息筋によると124万回分のワクチンは目下、日本が保有するすべてのAZワクチンに該当するという。タイや韓国、インドでの感染拡大によってそれらの国におけるAZワクチンの生産量が減少する中で、日本が即時に、しかも保有するすべてを提供したことは「恵みの雨」として肯定的に報じている。 

日本から台湾へのワクチン提供は5月28日に産経新聞が第一報を報じた。同紙によると、27日に日本政府及び自民党関係者が台湾に対して国内供給用に調達するAZワクチンの一部を提供する方向で検討していることを明らかにした。その後、実際に28日には茂木敏充外相が記者会見において、台湾へのワクチン提供について、東日本大震災における台湾による多大な支援に言及した上で「(ワクチン不足など)それぞれの地域における状況であったりとか、我が国との関係等々も考えながら、しっかり検討していきたいと思っています。」と発言し、前向きな姿勢を示した。 

このことは台湾でも当初から強い期待を持って歓迎された。これは、26日に台湾のコロナ対策を統括する陳時中・中央流行疫情指揮中心指揮官が中国側からのワクチン提供の申し出に対し「彼ら(中国)が打っていないものには関心があるが、彼らが打っているものを打つ勇気はない」と冷たくあしらったものとは対照的であった。蔡英文総統も28日に自身のツイッターで「深い友情に、心から感謝」すると日本語でツイートし、日本からのワクチン提供に歓迎の意を示した。 

そこからの動きは早かった。当初は6月下旬にも台湾に提供かと各メディアは報じていた。菅義偉首相も2日に行われたCOVAXワクチン・サミットで3000万回分のワクチンについてCOVAXファシリティなどを通じて台湾を含む各国・地域に提供する考えを示していたが、直後の記者会見では台湾へのAZワクチン提供については「まだ決定していません」と述べていた。 

しかし、実際は水面下で日台、そしてアメリカを含む関係者の調整が進んでいたと4日の自由時報と産経新聞は詳細に報じている。28日に日本政府が台湾へのワクチン提供を検討していることが明らかになってから4日に台湾に到着するまでのわずか一週間にいったい何があったのか。 

両紙によると、転機となったのは5月24日のこと。この日、台湾の台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表(事実上の大使)が東京都内の公邸に米国のヤング・駐日臨時代理大使を招いた。ちなみに3月には逆に謝代表が米大使公邸に招かれており、いずれも双方の公邸訪問は1979年の米華断交以来、初めてのこととされている。 

この日は安倍政権下で首相補佐官や自民党総裁外交特別補佐を務め安倍外交を支えた薗浦健太郎・自民党衆議院議員も同席した。薗浦議員はその場で、現在日本で公的接種の対象外となっているAZワクチンの台湾への提供を提案した。これにヤング臨時代理大使も賛同した。その後、薗浦議員は安倍晋三前首相に報告。そこから台湾へのワクチン提供に向けた水面下での動きは加速した。安倍前首相はワクチン調達の国際的枠組みであるCOVAXを通じた提供には台湾に届くまで時間がかかり過ぎると懸念を示し、台湾が求めているのは量ではなくスピードだとして、COVAXを介さずに台湾に直接提供するスピード重視で進められることとなった。この方針に麻生太郎・副総理兼財務相と菅首相の同意も得たという。 

その後、5月29日には河野太郎・新型コロナワクチン接種推進担当大臣が自身のYouTubeチャンネルのライブ配信において、ファイザー製ワクチンとモデルナ製ワクチンは非常に低温で保管・運搬する必要がある一方で、AZワクチンは前者に比して保管・運搬が容易であることに言及して台湾へのワクチン提供に触れた。また、茂木外相は3日の参議院外交防衛委員会において、7月以降には台湾国内でのワクチン生産体制が整う可能性があるものの「当面の緊急のニーズ」が台湾で高まっていることから調整を進めていることを明らかにした。 

現在、台湾では国産ワクチンの開発を進めているが、現状の感染拡大に対応するには当面のワクチンの確保もまた死活的に重要である。現時点で台湾はAZ社、モデルナ社、そしてCOVAXからすでに購入しているが、すでに到着しているのは3日時点で約88万回分にとどまっている。したがって、今回、日本から提供された124万回分のAZワクチンは、量的にも決して小さいものではないだろう。 

量的にもスピード的にも極めてインパクトが大きかったと思われる今回のワクチン提供は、近年の日台間で見られる「困ったときはお互い様」という実務関係をより一層深化させる意義があるだろう。 

コロナ禍のこの一年の日台関係を振り返ると、人的往来が断絶されてしまっている一方で、日台関係の深化を印象付ける出来事はいくつかあった。2020年4月にはマスク不足に陥っていた日本の医療従事者に対し、台湾から200万のマスクの提供があった。2020年7月30日に李登輝元総統が逝去した折には真っ先に日本から森喜朗元首相率いる弔問団が派遣され、森元首相は9月の追悼会にも出席した。そして、今年4月の日米首脳会談では実に52年ぶりに共同声明で「台湾」が言及された。民間レベルでも中国が一方的に台湾産パイナップルの輸入を禁止した後から日本では空前の台湾産パイナップルブームが巻き起こっている。 

今回の動きは中国にとって面白くないだろうが、このような見返りを求めず、困難にはともに立ち向かい、相互に助け合う日本と台湾の関係は中国には決して真似できないだろう。中国は台湾を不可分の領土として統一を画策し続けているが、台湾に対するあの手この手の嫌がらせを続け、国際社会から孤立させようとし、ワクチンの確保をも妨害し、時に見返りを求めた「善意」を示すが、果たしてこのような中国といったい誰が統一したいと思うだろうか。 

今回の日本によるワクチン提供の意義は大きいが、これでコロナ禍が終息するわけではない。依然として感染拡大が続き、ワクチン調達が難航している台湾の置かれた厳しい状況に変わりはない。2300万人以上が暮らす台湾で集団免疫を獲得するためにはまだまだ多くのワクチン確保が必要である。日本としても引き続き台湾へのワクチン支援を継続して助け合いながら、一方でしたたかに日台ワクチン外交を進めたいところである。 
6月4日の台湾紙「自由時報」。一面トップで報じた

(YouTubeメンバーシップ限定「台湾探究コラム」第10号、2021年6月4日配信)

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