スキップしてメイン コンテンツに移動

脱却できるか!?日本と台湾が背負ったそれぞれの戦後レジーム

69年前の1952年4月28日、日本はサンフランシスコ平和条約が発効したことにより主権を回復した。しかし、戦後75年以上の月日が経った今も、日本は敗戦国としての宿命を背負い続け、「押し付け」憲法の下で「普通の国」にはなり切れていない。 

日本はサンフランシスコ平和条約に基づいて、半世紀にわたり統治した台湾を放棄し、その帰属先を決める権限も喪失した。そして、台湾は仮初めの「戦勝国」としての中華民国によって支配されることとなった。 

本来なら日本による統治が終了したことで、主権は台湾の土地に生きる住民に返還されるべきであっただろう。しかし、結局は国際条約としての有効性に疑いのあるカイロ「宣言」を根拠に、中華民国に返還されたことになっている。 

台湾の地位をめぐる解釈や学説、政治的主張は様々だが、いずれにせよ、台湾人が戦後の中華民国体制下で辛酸を嘗めてきた歴史は疑いない事実である。ある日本語世代は「戦後の台湾を生き抜いた台湾人は二つに分類できる。一方は裏切り者。一方は臆病者。正義感のある日本時代のエリートは皆、殺された」と皮肉と悔しさを滲ませて表現する。 

台湾では1949年から1987年まで38年にわたって戒厳令が敷かれた。それが解除されると、1992年に台湾出身者初の李登輝が総統に就任。1996年には初の直接総統選挙が行われた。さらに2000年には野党の民進党総統候補であった陳水扁が当選を果たして政権交代が実現し、国民党一党独裁時代が終焉した。その後、2008年に国民党の馬英九が、2016年に民進党の蔡英文がそれぞれ総統に就任し、8年毎に政権交代を繰り返している。 

血を流して自由と民主を勝ち取り、自由民主主義国家として中華民国・国民党一党独裁体制という戦後レジームからの脱却に向けて漸進する台湾だが、真に戦後レジームから脱却するには、日本同様、憲法問題は避けて通れない。台湾の憲法は依然として「中華民国憲法」であり、条文の主語は言わずもがな「中華民国」である。 

無論、台湾が憲法問題に着手することは「現状変更」を意味し、台湾を「核心的利益」「不可分の領土の一部」と主張する中国を刺激し、平和と安定が脅かされるという脅威認識が台湾人にはあるだろう。故に台湾人の多くは「現状維持」を志向し、憲法問題はハードルが高い。 

一方で「脱蒋介石化(去蔣化)」という、戦後レジーム下の負の遺産を清算する流れは陳水扁政権以降、今日に至るまで続いている。権威主義体制の象徴たる蒋介石・蒋経国親子の銅像は全島各地で撤去の動きが進んでおり、桃園にある慈湖紀念雕塑公園にはおびただしい数の銅像が集積している。現在の蔡英文政権においても「移行期の正義」を促進し、「台湾」を主語にした国づくり、国際社会における「台湾」のプレゼンスを強化する取り組みが積極的に行われている。若い世代を中心とした国民党支持の低下、党勢そのものの弱体化もまた戦後レジームからの脱却、すなわち中華民国体制からの脱却を意味する趨勢なのかもしれない。 

主権は回復しても未だに「押し付け」憲法を変えられずにいる日本。建前としては未だ中華民国体制に縛られ「台湾」としての主権を回復できていない台湾。双方が真に戦後レジームから脱却した時、普遍的価値観、そして先人の歴史を共有する日本と台湾の新しい関係が築かれるだろう。
慈湖紀念雕塑公園に集積された蒋介石像
(YouTubeメンバーシップ限定「台湾探究コラム」第5号、2021年4月28日配信

YouTubeメンバーシップ「台湾探究サポーター」では、週一本以上のコラムや限定動画を配信しています。いただいた収益は、YouTube「ゴンタケ台湾Channel」の運営費や取材費に活用させていただきます。ご興味を感じていただけましたら、ぜひご登録をよろしくお願い申し上げます。

▶︎ご登録はこちら

コメント

このブログの人気の投稿

あの時、台湾は日本だった(作者:生き残りの元日本兵 楊馥成)

1922(大正11)年生まれの台湾出身の元日本兵・楊馥成(よう・ふくせい)さんにエッセイ「あの時、台湾は日本だった」をご寄稿いただきました。忘れられた台湾出身元日本兵の思いを多くの日本人に知っていただきたいと思います。 楊馥成さん あの時、台湾は日本だった     あの時、台湾は日本だった。あの時、台湾住民も日本国民であった。国家存亡を賭けた太平洋戦争たけなわのあの時、台湾の若者もこぞって勇躍戦場に馳せ参じ、数多護国の生贄と散華していった。  太平洋戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、5万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医療員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで大日本帝国の為に血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士たちは、生きて祖国に帰ってきても、占領に乗りこんで来た敵側統治者からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖圧政下で、日本に加担したかどに問われて残虐な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった(私も更なる拷問の挙句、罪の判決もなしに7年間の牢獄生活を強いられた)。 況や、陣没された英霊(私も終戦の翌々年親友の遺骨を首にぶら下げて戦地から故郷に帰った)に、誰も関心を寄せる者はありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府は、なぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?  戦後まもなく沖縄本島南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はつい2016年まで見られませんでした。あの時、数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及び支那大陸の各地で、日本国民として皆様と生死をともにして戦い、赫赫たる手柄を立て、又戦場の露と消え去った無数の英霊達も「大日本帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していったはずだったのに。  これらの英霊達が今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に曽ての戦友たちとともに奉祀して慰拝致したいと、数年来、地元...

「里港藍家」の栄枯盛衰と激動の台湾史

 台湾の名門一族「里港藍家」。300年近い歴史を有する藍家は、かつて台湾南部の屏東一帯で影響力を誇った。日本統治時代には日本と密接な関係を築いており、同家の藍高川は日本の台湾統治に貢献して台湾総督府評議会議員に任命され、天皇陛下から勲章も授与された。息子の藍家精もまた、親日の汪精衛政権樹立を工作した特務機関として知られる「影佐機関(梅機関)」で勤務経験があり、汪政権の少将にも就任している。そんな「華麗なる一族」に生まれた藍昭光氏は、その家柄ゆえ、波乱万丈な人生を余儀なくされた。  藍昭光氏は1930(昭和5)年、京都の北白川で生まれた。3年ほど京都で生活したが、父の家精が京都帝国大学大学院を退学したことを契機に、台湾南部の屏東に居を移した。当時、藍家の邸宅があった屏東には、台湾製糖株式会社が本社を構えていたほか、陸軍第8飛行師団の飛行場があり、比較的、内地人(日本人)が多く暮らしていた。そのため昭光氏は幼少期から日本人コミュニティの中で育った。  屏東の小学校に進学した昭光氏だったが、父の上海赴任に伴い、上海の北部第一小学校に転校、さらに祖父の高川が逝去すると再び台湾に戻り、今度は台北の建成国民学校に転校した。卒業後は台北第一中学校に次ぐ名門校だった台北第三中学校に進学したが、大東亜戦争の戦況悪化で、2年生に進級した頃には勉強どころではなかった。1945(昭和20)年4月には学徒兵として召集され、日本の勝利を確信して訓練に励む毎日を送った。  裕福な家庭で育ち、日本人との交流も多かった昭光氏は、間違いなく他の多くの本島人(台湾人)とは全く異なる日本統治下の台湾を生きてきた。しかしそれは一方で、戦後の国民党政権下の台湾では苦しい立場を強いられることを意味した。実際、国民党政府が台湾を接収してからしばらく経った頃、父に逮捕状が出された。「敵国」であった日本との関係の近さが理由だったと考えられる。1949年、昭光氏は父と兄とともに台湾を脱出し、日本へ亡命を果たす。購入した漁船に乗り14日間の命懸けの航海だった。日本では、父は台湾独立運動に奔走し、昭光氏は京都大学法学部に進学した。卒業後は東京の貿易会社に就職し、結局、再び祖国・台湾の土を踏むには東京オリンピック直前の1963年まで待たなければならなかった。  藍家の栄枯盛衰は、まさに激動の台湾史そのものである。そんな名家の...

台湾で神様となった日本人を祀る小さな祠〜「もう一回さん」として愛された日本人巡査・小林三武郎

台湾北東部に位置する宜蘭県の冬山郷太和村には日本人を神様としてお祀りしている小さな祠がある。 日本人巡査・小林三武郎を祀る祠 現地では「福徳正神(土地公)」という元々、中国の民間信仰に起源を有し、台湾においても広く信仰を集める神様として位置付けられている。そして、ここでは小林三武郎(こばやし・さぶろう)という日本人がその神様になっている。 残念ながら、名古屋出身と伝えられている小林氏の戸籍謄本は見つかっておらず、遺族も特定できていないため、詳細はわかっていないが、地元の古老の話として小林氏がどのような人物か一部記録が存在している。 古老の証言をまとめた記録によると、小林氏は日本統治時代、現地で森林保護などを担う巡査として赴任した。人情味に溢れた温かい人物で、地元民に厚く慕われていたという。 小林氏の人柄が想像できる逸話が今も伝えられている。 質素で慎ましい生活を送っていた小林氏は、地元民には食糧を浪費するばかりの雄の家畜の飼育を推奨しなかった。自らが率先して種付け用の雄のニワトリやアヒル、豚を飼育した。そして、地元民の飼育する家畜が種付けを必要とした際には、自身が飼育する家畜を無料で何度も提供したという。 小林氏は家畜を専門としないため、うまくいかないことも多々あったが、「もう一回」と言って諦めずに試みた。そして、次第に現地では、小林氏のことを「もう一回さん」と呼ぶようになったそうだ。 小林氏は現地で結婚し、80歳過ぎで亡くなった。1944(昭和19)年秋に現地で行われた送別式はとても盛大で、地元民は悲しみに暮れたそうである。 戦後、日本が台湾から引き揚げた後も地元の人々から愛され続けた小林氏は、地元民によって祠が建てられ、いつまでも忘れ去られなかった。そして、1969年には現地の黄玉生氏の呼びかけで建設費を集め、再建された。 さらに2001年になると、小林氏は土地の守り神である福徳正神になったと唱えられるようになり、ついに2004年、現地の土地公廟と永福宮三山国王廟にお伺いを立てた結果、小林氏は福徳正神として祀られるようになった。 父が祠の建設者で、現在、祠の隣で茶業を営む黄添桂さんによると、神様となった小林福徳正神の存在は地元民に広く知られ、今も信仰を集めているという。黄さん自身もたびたび祠にお供え物をしており、土地公の誕生日にはお祭りも行っているそうだ。また祠...