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知られざる台湾人軍属の墓石・安平十二軍夫墓〜地元有志による慰霊祭に参列して

先の大戦中、台湾は日本の統治下にあり、台湾人もまた「日本人」として戦争に駆り出され、多くの人々が国のために命を捧げた。軍人或いは軍属としての台湾出身元日本兵は約21万人にのぼり、その内、3万人を超す人々が戦没している。 
安平十二軍夫墓。前列9基、後列3基の計12基が姿を留める
1937(昭和12)年7月7日に北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した盧溝橋事件。これに端を発する支那事変においても、台湾人は軍属として駆り出された。

盧溝橋事件の勃発後、日本軍は上海に進軍するにあたり、多くの人員を必要とした。そこで日本の統治下にあった台湾において軍属が募集されたのである。厳しい戦地で命を落とした台湾人軍属は少なくなく、1937(昭和12)年7月14日から1939(昭和14)年5月19日までで4884人が戦没した。

中でも1937(昭和12)年8月という最も早い時期に募集された台湾人軍属は、台湾南部・台南の安平出身者が多数を占め、当時400人以上が召集された。募集に当たり、人々は海南島或いは基隆での仕事と伝えられていたが、後になって上海行きを告げられたという。

安平には、かつて同地から軍属として支那事変を戦い、犠牲になった12名の墓石が今も姿を留めている。「安平十二軍夫墓」として知られている台湾唯一の台湾人軍属の墓は、9基が1938(昭和13)年4月に、3基が1939(昭和14)年3月に建立された。墓石には「故陸軍々属○○墓」とあり、当時の台南州知事である川村直岡の名が刻まれている。
暮石の裏面
墓石の裏面には各人の経歴や人柄、戦没した状況なども刻まれている。中には享年17歳の戦没者もいる。当時、戦没した12名は墓石が建立されたほか、連隊葬や市葬などが行われたり、遺族に対する手厚い補償金などが給付されたりしている。その背景には、戦没者の慰霊追悼と同時に、戦時下における戦意高揚の意味もあったのではないかと考えられる。

2020年3月28日、安平十二軍夫墓前の敷地で「安平軍夫祭」が執り行なわれた。地元有志で組織する財団法人安平文教基金会が2010年より毎年主催している慰霊祭で、今年で11回目を数える。12名の戦没者の遺族らを中心に、地元の人々など約40名が集い、同地から出征した台湾人軍属に手を合わせ献花した。


主催団体である安平文教基金会は来年以降も引き続き慰霊祭を継続していきたいという。また同会は現在、安平十二軍夫墓を台南市指定古跡、或いは公的な文化資産として保存していくことを目指している。

目下、市の選定基準では指定古跡とするためには「建築物」である必要があり、墓石をその対象として捉えることは難しいというが、同会は「歴史的価値」と「唯一性」の観点から引き続き市に対して積極的な働きかけをしていきたいとしている。

戦後75年が経過し、戦争を知る世代は年々減少している。かつて安平軍夫祭にも台湾人軍属の生還者が数名参列していたと言うが、安平の最後の生き残りの軍属であった方はすでに鬼籍に入り、最早、直接証言をうかがうことはできなくなった。

安平文教基金会の董事を務める鄭道聰さんは「安平十二軍夫墓が古跡に指定されれば今後も保存され、地元の歴史が記録されていく。それが叶わない間は慰霊祭を粛々と続けるのみ」と話している。また同会秘書長の周芷茹さんは「学校教育などを通じ、まず安平の人々に広く台湾人軍属の歴史を知ってもらうことが大切です」と今後の課題を語った。

安平から出征した台湾人軍属もまた「日本人」として日本のために戦った。日本人も知られざる台湾人軍属の歴史を風化させない努力が求められている。
(2020年3月28日執筆)

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