スキップしてメイン コンテンツに移動

台湾出身「元日本人」の国籍問題〜人権問題、そして日本の誠意が問われる問題

1948年12月10日に第3回国際連合総会で採択された世界人権宣言。これは、すべての人民と国が人権や自由を尊重し確保するために達成すべき共通の基準である。前文と30の条文から成り立つこの宣言の第十五条は以下の通りである。 

第十五条 
1 すべての人は、国籍を持つ権利を有する。 
2 何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない。 

この宣言は賛成48、反対0、棄権8で採択され、拒否権を有する当時の安全保障理事会常任理事国で、戦後、台湾を占領した中華民国も賛成票を投じた。また、日本は当時、国連に未加盟で、採択の場にはいなかったが、1952年に発効したサンフランシスコ平和条約において、世界人権宣言の目的を実現するために努力することが明記されている。この宣言には何の法的拘束力もないものの、今日のあらゆる人権条約の基礎となっている。 

1895年から1945年まで半世紀にわたる日本統治時代に台湾で生を享けた台湾出身者は、特に戦時中の教育や皇民化政策によって、日本人としての強い自我が育まれた。戦時中は「一視同仁」「内台一如」の掛け声の下、日本人として日本のために戦い、敗戦には日本人として涙を流した。しかし、日本の敗戦に伴う日本統治時代の終了は、新たな外来政権である中華民国の占領の始まりであり、それは日本国籍の喪失と「中国人」になることを意味した。またかつての敵国である中華民国・国民党に支配されることは、「元日本人」である台湾の人々にとって悲劇であり、数多の犠牲を生んだ。 

こうした歴史的背景、戦後76年で積み上げられた既成事実から、台湾出身「元日本人」の考えも多様である。ある人は「昔は日本人、今は台湾人」と称したり、ある人は「今は無国籍」と嘆いたり、ある人は「今も日本人」と主張したりする。複雑な台湾の歴史を象徴する台湾出身元日本人の国籍問題に明確な解決策はないが、日本にとって他人事ではなく、向き合う責任がある。 

2019年10月、台湾出身「元日本人」の男性三名が大阪地方裁判所において、日本国籍を現在も保有していることを確認するため、日本国を相手に提訴した。原告の一人であり、かつて日本兵として従軍した経験を持つ1922(大正11)年生まれの楊馥成さんは「裁判の結果がどうであろうと、この裁判を通して日本人に対し、台湾人の若者が日本のために戦争を戦い、戦後は敵性国民との理由でひどい目にあわされ、殺された人がたくさんいるという真実の歴史を知ってほしい」と提訴した理由を語る。 

楊さんのように元日本兵の台湾出身者は、戦後、サンフランシスコ平和条約に基づき日本が台湾を放棄したことによって日本政府からは「外国人」と見なされ、日本軍人・軍属としての補償は一切受けられず、遺族もまた長い期間、補償の対象外とされた。 

無論、先述の通り戦後76年間、国籍問題を「放置」し、既成事実が積み上げられていったことで、最早、問題の解決は難しい。また元日本人も多くが鬼籍に入り、国籍問題に声をあげる人もいない。しかし、楊さんが主張するように、台湾出身元日本人の歴史を知り、忘れないことは、今、日本人として示すことができる唯一の誠意ではないだろうか。 

楊さんらにとって「最後の戦い」である日本国籍確認裁判は10月に原告の意見陳述が予定されており、現在進行中である。この裁判を通じて台湾出身元日本人の歴史が注目されることを期待したい。
日本国籍確認裁判の原告三名。左から楊馥成さん、林華杞さん、林余立さん
(YouTubeメンバーシップ限定「台湾探究コラム」第14号、2021年7月4日配信)

YouTubeメンバーシップ「台湾探究サポーター」では、週一本以上のコラムや限定動画を配信しています。いただいた収益は、YouTube「ゴンタケ台湾Channel」の運営費や取材費に活用させていただきます。ご興味を感じていただけましたら、ぜひご登録をよろしくお願い申し上げます。


▶︎ご登録はこちら

コメント

このブログの人気の投稿

あの時、台湾は日本だった(作者:生き残りの元日本兵 楊馥成)

1922(大正11)年生まれの台湾出身の元日本兵・楊馥成(よう・ふくせい)さんにエッセイ「あの時、台湾は日本だった」をご寄稿いただきました。忘れられた台湾出身元日本兵の思いを多くの日本人に知っていただきたいと思います。 楊馥成さん あの時、台湾は日本だった     あの時、台湾は日本だった。あの時、台湾住民も日本国民であった。国家存亡を賭けた太平洋戦争たけなわのあの時、台湾の若者もこぞって勇躍戦場に馳せ参じ、数多護国の生贄と散華していった。  太平洋戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、5万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医療員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで大日本帝国の為に血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士たちは、生きて祖国に帰ってきても、占領に乗りこんで来た敵側統治者からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖圧政下で、日本に加担したかどに問われて残虐な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった(私も更なる拷問の挙句、罪の判決もなしに7年間の牢獄生活を強いられた)。 況や、陣没された英霊(私も終戦の翌々年親友の遺骨を首にぶら下げて戦地から故郷に帰った)に、誰も関心を寄せる者はありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府は、なぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?  戦後まもなく沖縄本島南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はつい2016年まで見られませんでした。あの時、数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及び支那大陸の各地で、日本国民として皆様と生死をともにして戦い、赫赫たる手柄を立て、又戦場の露と消え去った無数の英霊達も「大日本帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していったはずだったのに。  これらの英霊達が今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に曽ての戦友たちとともに奉祀して慰拝致したいと、数年来、地元...

台湾出身「元日本人」国籍復帰確認裁判の判決下る〜取材者として見つめてきた先輩達「最後の戦い」

1月11日、東京地方裁判所で一つの判決が下された。日本統治下の台湾に「日本人」として生まれ、今なお「日本人」としての矜持を抱き続ける3名の台湾出身「元日本人」が、戦後に本人の意思に反して日本国籍を剥奪されたことは不当だとし、現在も日本国籍を有していることの確認を求めていた裁判である。 原告は、1922年生まれの 楊馥成(ようふくせい)さん 、1927年生まれの 林余立(りんよりつ)さん 、1933年生まれの許華杞(きょかき)さんで、2019年10月4日、3名は止むに止まれぬ思いで訪日し、大阪地方裁判所にて提訴に踏み切った。未曾有のコロナ禍で裁判の進捗は滞り、その後、東京地方裁判所に移され、2年以上を経て今回の「敗訴」に至った。 原告の3名。左から、楊馥成さん、許華杞さん、林余立さん 訴えは退けられた 原告が裁判で求めていたことはただ一つ。「日本国籍を有していることを確認する」。それ以外に賠償や謝罪などを要求するものではなかった。求めているのは「国籍」という人権であり、尊厳であり、これまで「日本人」として生き抜いてきた台湾の人々の生き様そのものの確認である。 求めたことはただ一つ... 裁判という手段に踏み切った原告らの思いや決断を理解するには、台湾の歴史、そしてその土地で今日まで生き抜いてきた人々の境遇を知る必要がある。 1895年から1945年までの50年間、台湾は紛れもなく「日本」だった。日清戦争で勝利した日本は、清国との間で下関条約を締結し、台湾は日本に永久割譲された。日本はその後、台湾を「新領土」として統治してきたわけである。この50年の間に台湾で生まれた原告ら台湾出身者は「日本人」として生まれ、日本語を母語として教育を受けてきた。 また原告らと同世代の台湾出身者は、先の大戦も経験している。「日本人」として国のために身命を賭して戦い、日本の勝利を信じていた。厚生労働省社会・援護局によると、台湾出身の軍人・軍属は20万7183人で、その内3万306人が戦没している。 実際、原告の楊馥成さんは1943年に軍属に志願し、シンガポールにて南方方面の部隊に対する補給任務などに従事した。また林余立さんも海軍工員として高雄の海軍工廠で勤務、海軍整備兵として空襲の被害も少なくなかった台湾の地で戦禍を生き抜いた。 楊馥成さん 許華杞さんは軍歴こそないが、12歳まで「日本人」で...

「里港藍家」の栄枯盛衰と激動の台湾史

 台湾の名門一族「里港藍家」。300年近い歴史を有する藍家は、かつて台湾南部の屏東一帯で影響力を誇った。日本統治時代には日本と密接な関係を築いており、同家の藍高川は日本の台湾統治に貢献して台湾総督府評議会議員に任命され、天皇陛下から勲章も授与された。息子の藍家精もまた、親日の汪精衛政権樹立を工作した特務機関として知られる「影佐機関(梅機関)」で勤務経験があり、汪政権の少将にも就任している。そんな「華麗なる一族」に生まれた藍昭光氏は、その家柄ゆえ、波乱万丈な人生を余儀なくされた。  藍昭光氏は1930(昭和5)年、京都の北白川で生まれた。3年ほど京都で生活したが、父の家精が京都帝国大学大学院を退学したことを契機に、台湾南部の屏東に居を移した。当時、藍家の邸宅があった屏東には、台湾製糖株式会社が本社を構えていたほか、陸軍第8飛行師団の飛行場があり、比較的、内地人(日本人)が多く暮らしていた。そのため昭光氏は幼少期から日本人コミュニティの中で育った。  屏東の小学校に進学した昭光氏だったが、父の上海赴任に伴い、上海の北部第一小学校に転校、さらに祖父の高川が逝去すると再び台湾に戻り、今度は台北の建成国民学校に転校した。卒業後は台北第一中学校に次ぐ名門校だった台北第三中学校に進学したが、大東亜戦争の戦況悪化で、2年生に進級した頃には勉強どころではなかった。1945(昭和20)年4月には学徒兵として召集され、日本の勝利を確信して訓練に励む毎日を送った。  裕福な家庭で育ち、日本人との交流も多かった昭光氏は、間違いなく他の多くの本島人(台湾人)とは全く異なる日本統治下の台湾を生きてきた。しかしそれは一方で、戦後の国民党政権下の台湾では苦しい立場を強いられることを意味した。実際、国民党政府が台湾を接収してからしばらく経った頃、父に逮捕状が出された。「敵国」であった日本との関係の近さが理由だったと考えられる。1949年、昭光氏は父と兄とともに台湾を脱出し、日本へ亡命を果たす。購入した漁船に乗り14日間の命懸けの航海だった。日本では、父は台湾独立運動に奔走し、昭光氏は京都大学法学部に進学した。卒業後は東京の貿易会社に就職し、結局、再び祖国・台湾の土を踏むには東京オリンピック直前の1963年まで待たなければならなかった。  藍家の栄枯盛衰は、まさに激動の台湾史そのものである。そんな名家の...