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防衛白書を読む〜その特徴と「台湾」に関する記述

7月13日、令和3年版の防衛白書が閣議で報告された。防衛白書は、1970年に当時の中曽根康弘防衛長官の「国の防衛には、何よりも国民の理解と積極的な支持、協力が不可欠」という信念のもと初めて刊行され、1976年の2回目以来、毎年、刊行されている。日本の防衛の現状とその課題及び取組について国民に周知を図ることを目的としている。

今年度の白書には昨年度以前とは異なる2つの特徴が見出せる。第一に、米中関係に関する項目が新設されたこと。第二に、日本にとっての「台湾情勢」の重要性が初めて明記されたことである。

これまで白書の第I部「わが国を取り巻く安全保障環境」では、米国と中国についてそれぞれ個別に節が設けられていた。しかし今年度は米中個別の節に加えて「米国と中国の関係など」という項目が新設された。その理由について、岸信夫防衛大臣は13日の記者会見で「近年、政治、経済、軍事など様々な分野にわたって米中の戦略的競争が一層顕在化している」という認識を示し、米中関係について記述すべき内容が大幅に増えたことを指摘している。

1971年7月15日のニクソンショックから50年が経過し、今日の米中関係は接近・協調から競争へと決定的に変貌している。米中関係そのものが日本及び地域の平和と安定にとって無視できない要素という認識を明確にしたことは画期的である。

またこれまでの白書では、台湾に関する記述は「中国」の節で取り上げられていたが、今年度は上述の「米国と中国の関係など」に位置付けられた。すなわち、台湾が中国領土の一部であるという「虚構」に制約されている日本政府の建前よりも、米中競争の焦点が台湾であるという「現実」の認識を示したわけである。

そして今年度の白書は「台湾をめぐる情勢の安定は、わが国の安全保障にとってはもとより国際社会の安定にとっても重要であり、わが国としても一層緊張感を持って注視していく必要がある」と初めて日本にとっての「台湾情勢」の重要性が明記された。

今年3月の日米2プラス2共同声明や4月の日米首脳共同声明などでも「台湾海峡の平和と安定の重要性」が言及されたが、白書では台湾海峡に限定せず、より包括的な表現である「台湾をめぐる情勢」を使用している点もまた特徴的である。

なお、岸防衛大臣は記者会見において、当事者間の直接の対話によって平和的に解決されることを期待するという日本の台湾問題に対する立場に変更はなく、台湾との関係についても基本的立場に変更はないと説明した。

今年度の白書は、中国からは強い反発を招き、台湾からは歓迎された。中国外交部の趙立堅報道官は13日の記者会見で、強烈な不満を表明し断固として反対すると発言。台湾問題が中国の内政問題であるという認識を改めて示し「中国はいかなる国がいかなる手段による台湾問題への干渉を行うことも断じて許さない」と述べた。

一方で台湾は外交部の欧江安報道官が13日の記者会見で防衛白書の台湾に関する記述に触れ「高度に歓迎し心から感謝すると共に、理念の近い国々に対し、台湾海峡の安全と平和が地域の繁栄と安定にとって重要であることを重視するよう働きかけていく」と述べた。

今年度の白書は、これまで同様、北朝鮮については明確に日本にとっての「脅威」として位置付けられている一方で、中国は脅威ではなく「懸念」にとどまっている。中国を脅威として位置付けられないことは、国民の安全保障理解を不明瞭にしてしまうだろう。依然として存在する過度な対中配慮は、国民に日本の防衛の現状や課題などを周知する上で阻害以外の何ものでもない。

今回、台湾情勢の安定の重要性が初めて明記されたことは、現実の日本を取り巻く安全保障環境を鑑みた至極真っ当な表記として評価される。漸進的ではあるが、中国の明確な脅威に直面する中で、日本の国益を確保するためには台湾との連帯強化が不可欠であるという国民的コンセンサスが形成されることが期待される。

(YouTubeメンバーシップ限定「台湾探究コラム」第16号、2021年7月16日配信)

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