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最新世論調査から見える台湾の「今」〜強まる台湾人意識と現状維持の中での独立志向

国立政治大学選挙研究センターが毎年実施している世論調査「重要政治態度分布趨勢圖」の今年の結果が7月20日に公表された。同調査は、(一)台湾人/中国人アイデンティティ、(二)中台の統一・独立に関する立場、(三)支持政党について台湾住民に問うもので、台湾が民主国家へと歩み始めた1992年に開始された。台湾住民の政治意識の変化を長期にわたり調査しており、民主化以降の台湾の変遷、そして台湾の「今」を理解する上で有益である。では最新の調査から見えてくる台湾の「今」とは何か。 

まず(一)台湾人/中国人アイデンティティについて、自身を「台湾人」と認識する割合は63.3%を記録した。この割合は調査開始以来、多少の変動はあるものの漸増傾向にあり、2020年の調査では過去最多の64.3%を記録した。一方で自身を「台湾人であり中国人でもある」と認識する割合は31.4%であった。こちらは調査開始以来、多少の変動はあるが漸減傾向にあり、2020年の調査では過去最少の29.9%を記録した。昨年の結果と比べそれぞれ微減、微増しているものの、長期トレンドとして「台湾人」意識は強まり、逆に「中国人」意識は薄まる一方である。なお自身を「中国人」と認識する割合は92年の25.5%から減少を続け、今年は2.7%を記録し調査開始以来、初めて3%未満となった。 

次に(二)中台の統一・独立に関する立場では、選択肢として6つの回答(①できる限り早く統一、②できる限り早く独立宣言、③現状維持の後、統一に向かう、④現状維持の後、独立に向かう、⑤現状維持しながら決める、⑥永遠に現状維持)と無回答が用意されている。 

この設問の長期トレンドとしては、台湾住民の多数派が「現状維持」志向であることを指摘できる。実際、95年を除き「⑤現状維持しながら決める」が一貫して最多を占め、「⑥永遠に現状維持」も漸増傾向である。今年の結果においても「⑤現状維持しながら決める」が28.2%、「⑥永遠に現状維持」が27.5%であり、「現状維持」志向が全体の55.7%を占めている。 

そして、近年のトレンドとしては「④現状維持の後、独立に向かう」が急激に伸びている。2018年は15.1%だったが、19年に21.8%、20年に過去最多の25.5%、そして今年も25.5%で横ばいとなっている。現状維持の中での「独立」志向が18年から13ポイント上昇しているのに対し、この間「③現状維持の後、統一に向かう」は7ポイント近く減少している(18年は12.8%、今年は5.7%)。 

したがって、「現状維持」志向の55.7%に「④現状維持の後、独立に向かう」の25.5%を含めると81.2%となり、目下の台湾の選択としては「現状維持」を最適解としつつも、今後の展望として「独立」が望ましいという考えが台湾の今のコンセンサスと言えるだろう。 

なお、「①できる限り早く統一」、「②できる限り早く独立宣言」や「③現状維持の後、統一に向かう」はいずれも6%以下であり、急進的な統一や独立、或いは将来的な統一という選択は最早台湾では少数派の意見である。 

最後に(三)支持政党の今年の結果は、与党の民主進歩党が31.4%、野党第一党の中国国民党が18.7%を記録した。民進党は2020年に調査開始以来、過去最高を記録した34.0%から微減。一方の国民党は2020年の17.0%から微増となった。 

なお、44.4%は中立或いは無回答であり、今後この無党派層をいかに取り込んでいくかが各政党の課題となる。また柯文哲・台北市長が2019年に立ち上げた台湾民衆党は2020年の4.9%から今年は4.1%となり低迷している。 

今回の調査結果は、2016年の蔡英文政権発足以降、国民党が有権者の支持を依然回復できず、目下、政権奪還が難しいことを示唆している。同時に、台湾民衆党や時代力量など現在、立法院で議席を有している小政党も第三極になるには十分な支持が集められておらず、民進党一強状態を物語っている。これは、前述した通り、強まる「台湾人」意識や現状維持の中での「独立」志向など台湾の今の民意を反映している政党が民進党以外に存在しないからであろう。 

 一方で人々の多数が望む「現状維持」の維持したい「現状」が何を指すかなど、その定義は多様であり、調査結果から読み解くことはできない。しかし「現状維持」という冷徹なリアリズムのもとで、台湾人は未だ定まらない台湾の「あり方」を真剣に模索し、今まさに国づくりの最中にある。台湾人が今後どのような選択をしていくか、引き続き注目したいところである。
(YouTubeメンバーシップ限定「台湾探究コラム」第17号、2021年7月23日配信)

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