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58%の台湾人が日本の出兵に期待〜最新世論調査から台湾有事に対する台湾人の認識を読み解く

台湾の民間シンクタンク「台湾民意基金会」が11月2日に「両岸軍事危機下の台湾民意」をテーマに実施した世論調査の結果を公表した。 

同調査は今年10月18日から20日までの三日間、全国の20歳以上の成人を対象に電話調査で行われ、1075人が回答している。調査の設問は下記の通りである。 

① 「台湾海峡を挟んだ両岸において、様々な要因によって遅かれ早かれ戦争が勃発し、中国が台湾に出兵して武力攻撃を行う」という指摘がありますが、あなたは同意しますか。 
② 仮に中国が明日、台湾への武力侵攻を行った場合、あなたは軍が台湾を十分に防衛できると確信していますか。 
③ 中国による台湾への武力侵攻の可能性に対して、一般論として蔡英文政権は充分な準備ができていると思いますか。(軍事・非軍事含む) 
④ 仮に中国が台湾への武力侵攻を行った場合、アメリカは出兵して台湾防衛に協力する可能性があると思いますか。 
⑤ 仮に中国が台湾への武力侵攻を行った場合、日本は出兵して台湾防衛に協力する可能性があると思いますか。 
⑥ 「両岸間の戦争は避けられず、一旦開戦すると台湾内部の親中勢力が工作活動を行い、団結を阻む恐れがあり、問題である」という指摘がありますが、あなたは同意しますか。 

こうした世論調査が今、台湾で実施されること自体が台湾有事の緊張が高まっていることを物語っているが、果たして台湾の人々はいかに認識しているのか。 

まず①の台湾有事の可能性について、「遅かれ早かれ戦争が勃発し、中国が台湾に出兵して武力攻撃を行う」ことに対して、「とても同意」が7%、「同意と言える」が21.1%、「あまり同意しない」が40.6%、「全く同意しない」が23.7%、「意見なし・わからない」が7.6%だった。即ち、28.1%が台湾有事を現実に起こり得る事態と認識している一方で、64%以上は中台間で実際の武力衝突には発展し得ないと認識している。 

2019年11月にも同基金会は同じ設問で調査を行なっており、2019年調査では「とても同意」が5.1%、「同意と言える」が10.9%、「あまり同意しない」が35.0%、「全く同意しない」が42.4%、「意見なし・わからない」が2.2%だった。

したがって、この二年間で台湾有事が起き得る事態と認識する割合は明らかに増加しているものの、依然として実際の武力衝突には発展しないという考えが世論の大勢であるのは、台湾有事が国際社会の関心事として注目される昨今、些か意外な結果である。 

次に②の台湾人の軍による台湾防衛に対する信頼について、「とても自信がある」が19.6%、「自信があると言える」が28.8%、「あまり自信がない」が23.7%、「全く自信がない」が23.1%、「意見なし・わからない・回答拒否」が7.6%だった。即ち現状の軍の防衛体制について、約48%は満足しているが、約47%は不十分と考えており、国論は二分していると言える。

また③の蔡英文政権の台湾有事に対する備えについて、「とても充分」が11.3%、「充分と言える」が32.4%、「あまり充分ではない」が27.2%、「全く充分ではない」が20.4%、「意見なし・わからない・回答拒否」が8.7%だった。したがって、②と同様に台湾有事への現状の備えを不充分とする認識が世論の約半分を占めており、台湾有事への備えは政権にとっての主要課題と言える。 

次に④の台湾有事に際しアメリカが台湾防衛のために出兵する可能性について、「とても可能性がある」が26.7%、「可能性があると言える」が38.8%、「あまり可能性がない」が17.1%、「全く可能性がない」が11.4%、「意見なし・わからない・回答拒否」が6.5%だった。 約65%がアメリカは出兵する可能性があると認識しており、アメリカへの期待の高さがうかがえる。

同様の設問は2018年4月と2020年9月にも行われており、2018年調査では「とても可能性がある」(15.9%)と「可能性があると言える」(31.5%)で47.4%、2020年調査では「とても可能性がある」(24.1%)と「可能性があると言える」(35.9%)で60%となっており、アメリカへの期待は年々、高まっており、近年の米台関係の緊密化・深化も世論に影響を与えているものと考えられる。 

そして⑤の台湾有事に際し日本が台湾防衛のために出兵する可能性について、「とても可能性がある」が22.3%、「可能性があると言える」が35.7%、「あまり可能性がない」が21.5%、「全く可能性がない」が13.7%、「意見なし・わからない・回答拒否」が6.8%だった。 

④のアメリカの出兵の可能性に対する認識と比べると日本への期待は若干低くなるが、実に58%は日本が台湾防衛にコミットする可能性があると認識している。台湾有事における日本の役割が期待されていることは日本人にとって興味深い。 

最後に⑥の台湾有事発生時の国内の親中勢力への危機感について、親中勢力による台湾の団結への障害に対して、「とても同意」が29.7%、「同意と言える」が24.8%、「あまり同意しない」が23%、「全く同意しない」が13.5%、「意見なし・わからない・回答拒否」が9%だった。即ち、世論の過半は台湾有事における国内の親中勢力の動向を脅威と認識している。 

さて、同調査の結果は台湾有事の当事者であり、仮に勃発した際には最大の「被害者」となる台湾の人々の現状認識を説明するものである。 

台湾の国防部(防衛省に相当)は昨年9月より、活発化する中国軍機の動向をホームページで「即時軍事動態」として公表しており、2021年に台湾南西の防空識別圏に侵入した中国軍機は累計700機を超えており、連日に亘り侵入を繰り返す日も少なくない。いつ実際の衝突が発生してもおかしくはない状況である。 

そうした状況下、今回の調査では、意外にも64%以上の世論は中台間で実際の武力衝突には発展し得ないと認識している結果となった。これが「慣れ」によるものか、或いは過去、常態的に中国の脅威に直面してきた台湾の人々の冷徹なリアリズムに基づく情勢認識かは今後も観察していく必要がある。 

一方で、台湾有事の備えを不十分と認識する割合は極めて高いことから、中国はやはり台湾の人々にとっては紛れもない「脅威」である。その脅威に対処するパートナーとしてアメリカ、そして日本への「期待」が高いことも今回の結果が表している。 

ただ、現実問題として、日本にはアメリカのような「台湾関係法」などはなく、台湾とは正式な外交関係もなく、また日本国憲法の制約もあって軍事上の協力は不可能である。仮に平和安全法制に基づき、台湾有事を重要影響事態に認定すれば、同盟国である米軍の後方支援活動や捜索救助活動、船舶検査活動など必要な措置を講ずることはできる。 

今年7月、麻生太郎副総理兼財務相(当時)は台湾有事が存立危機事態に該当する可能性に触れた。存立危機事態に認定されれば、限定的な集団的自衛権の行使が可能となるが、日本政府としての態度は依然曖昧なままであり、そもそも平和安全法制成立時には国会で台湾有事を想定した議論は十分になされなかった。 

日本の現状の「限界」を台湾の人々がどこまで認識しており、また日本に対してどこまでの役割を期待しているかは今回の調査結果だけでは読み解くことはできない。しかし、台湾有事の発生は、日本の平和と安定を脅かす日本有事そのものであり、現行の平和安全法制で十分に対処できるか見直しを検討し、結果として台湾の人々の「期待」にも応え得るような措置をより一層可能とすることが日本の安全保障の最優先課題であろう。平和安全法制の再整備では不十分であれば、日本国憲法の見直しも当然避けられない。

58%の台湾の人々の「期待」に応えることが目的ではない。台湾世論を日本も冷徹に認識し、日台が協力して台湾有事を起こさせない抑止力をいかに構築するか急ぎ着手していく必要がある。「備えあれば憂いなし」は今こそ肝に銘じたい。
(YouTubeメンバーシップ限定「台湾探究コラム」第29号、2021年11月7日配信)

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