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瓦房店市烈士墓園桜林にまつわる物語(作者:台湾出身元日本兵・楊馥成さん)

旧満洲国遼東半島(現・遼寧省)大連市の北約100㎞に所在する瓦房店(がぼうてん)市。有名な産物は二つあり、一つは農産物のリンゴ(支那大陸におけるリンゴ栽培の発祥地。始祖は青森県から)、もう一つは工業製品のベアリング(支那大陸で最高品質。やはり日本人が残してきた産業)です。ここに、南満鉄道(ハルビンから大連まで。当初ロシアが建設し日露戦争後に日本に譲渡)の附属病院がありました(現在、瓦房店市の中心病院で、瓦房店駅前にあり)。

この病院に戦後一人の日本人女性が居残りました(止むを得ず居残ったのでしょうが)。瓦房店市民に敬愛された名医・奥城富代女史です。奥城医師は大分県の出身、終戦の年(昭和20年の春)に附属病院の看護師として来ます。間もなく終戦、そして今までの職場に居着いたまま、看護師から医師に、そして主任医師。現地の男性と結婚したが、日本国民・奥城富代の名前で最後まで通しました。

市民からオーシェン医師と呼ばれて親しまれていました。やがて、文化大革命(十年動乱)の1966年から1976年の十年間、支那各地で全国民が2派か3派に分かれて華々しい争闘戦を展開します。そして、けが人が続出、重傷で死ぬ者も少なからず。だが、殆どのお医者はただ手を拱(こまね)いて見ざる、聞かざる、語らず。なまじっか慈悲心を出したばかりに禍い直ちに自分の身に降りかかるからです(手当てをしてやった人の反対派の者からの迫害が恐ろしかった)。

その中で奥城医師は、誰彼かまわず治療してあげました。大無畏(※恐れを知らない勇敢さの意)の勇気と熱烈なる博愛精神がなければできなかったでしょう。お陰で沢山の人が助かりました。それで、文化大革命後、大いにもてはやされ、感謝され、一躍、瓦房店市の名士となって全市民の尊敬の的となりました次第。

1989年、私は市の農業顧問として招聘されて初めて瓦房店市に来ます。虚名を博してからは度々、北京から瓦房店市を訪ねるようになりましたが、その度に奥城医師が会いに来て下さいます。恐らく久しぶりに日本語を話すチャンスが来たとでも喜んででしょう。

ある日、私を烈士墓園に案内して日本人のお墓を見廻りました。朝鮮戦争当時、沢山の負傷兵が瓦房店市の元南満鉄道の附属病院に送り込まれました。この病院で治療の甲斐なくして亡くなられた三百数十柱の英霊が市当局で丁重に葬られ(公園の一角に烈士墓園と名付けられて)、毎年の清明節には、市の主催で厳かな慰霊祭が挙行されます。

この中に、日本人名の墓標が20基ばかり、ここ遠く故国を離れた異郷の地で寂しく眠っています。墓主(ホトケ)を訪ねて来る家族や親友とてなく、況や祖国の政府や同胞からは誰一人関心を寄せる者はありませんでした。

奥城医師は不憫に思い、何度も日本政府に墓主の遺家族を探してくれるよう陳情しましたが、些かも反応はありませんでした。致し方なし、せめて些かのお慰めだけでもと、時々子供を連れてお墓参りを数十年続けてきました。

1998年になって体調を崩した奥城医師は、子供を一人連れて日本へ帰ります。瓦房店を離れる当日、丁度、私も来ていました。そして、北京空港へ行く汽車に乗るため瓦房店駅まで送ったんですが、その途中、かすかな声で私に「自分の命はもう幾何もないでしょう。日本へ帰って桜の満開を見てからでないと死に切れない」と囁き、さらに烈士墓園で眠っている20名の同胞を残してきたことが気がかりで、私に「代わって見守ってください」と頼まれました。

ところが、私とていつまでも瓦房店市にいられる身ではなく、委嘱された任務を充分に果たす自信はなさそう。そこで思いついたのが桜の木をお墓の周囲に植えることでした。日本人の桜に対するこだわり、奥城女史も死ぬ前に是非とも故国に帰って桜を見たいと言われた、この墓園に眠っている20柱の英霊も同じ心境だろう。それでそのお墓の傍に桜を植えたら、或いは幾らかでもお慰めとなるかも、墓園に桜を植える想念は斯くして芽生えた次第。

だが、日本人のお墓のそばにだけ桜を植えるわけにもいかず、まず市当局の許可が得られないでしょう。それで、烈士墓園全体に植えることにして、市当局に明治政府がワシントン市に3千本の桜を贈ったケースにならい(現在、ワシントン市公園の観光スポットとして賑わっている)、桜花林をつくったら将来、市の観光名所として、また日支友好のシンボルともなれるだろうとの旨を陳情して許可を得ることができました。ここに訪ねて来る観光客が、支那の革命事業に数多の日本人も参与して犠牲になっていることを支那本国人が知り、また市当局が敵性国だった日本の国民にもかく同様に烈士として丁重に祀られていることを日本の観光客が見ることができれば、日支両国民の友好に資することもできるでしょう。

丁度、箱根にて戦友会の集まりがあり(二次大戦中、私は軍属として南方派遣軍に従属していた)、招かれて参加した折、この意向を皆様に相談したら熱烈なる賛同を受け、その場で各人(30名位)から2万円、3万円とカンパを受け、励まされましたので、帰ってから早速実行に移しました。

農業局のお役人さんの協力で、苗木は遠き揚子江付近から取り寄せました。墓園内外に偏なく植え、完成して数えてみたら5888本、別に植え付けの手伝いに来た駐屯部隊にお礼として350本贈与。昔、東京市がワシントン市に寄贈した3000本の倍数でした。工場を抵当に工面して作ったお金で完成しました。そして数年後には、素晴らしい観光スポットになるぞとひそかに期待して楽しみにしていました。それから間もなくして私も瓦房店を離れました。

数年後に瓦房店へ行った折、胸踊らして立派に成長した桜花林を見ようと思って立ち寄ってみたら、これ如何に・・・?6000本の桜木は枯死したり、盗まれたりして、生き残り幾何もなし、30%も残っていないでしょう。悲憤、残念、交々の堪えざる思いをいたしました。

瓦房店を去る際に、桜花林の管理費にと20万元(人民元)を当局(統戦部)に預けたんだが、そのお金はどこに費消されてしまったんだろう?カンパしてくだされた30名余の老戦友達の期待に沿うことができず、無念に涙滂沱!

当局のトップ連中(市委、市長、農業局長、統戦部長)は、私が去ってから数年後、陣容がすっかり変わっていました。人が変われば、何事も変わる。前の人が定めたことは、後継者が気に入らなければ簡単に反故にされてしまうお国柄。私を瓦房店市の農業顧問に推薦した統戦部の王部長や私を礼遇した市長等は既に引退して2代目の若い人達にかわっていました。

元来、木や緑を愛さない族群です。植林しようと思わないばかりか、木を見ると伐採したくなる。日本国土の緑の被覆率60何%に対して支那大陸は10何%しかないという。或る友人が言った。「アメリカ大陸は幸い支那人の発見でなくてよかった。さもなくば、今はすっかり砂漠化されていたでしょう」。

台湾はそのよき例です。今、台湾ではちょっと大きな雨でも降ると山崩れや土石流が頻発します。二次大戦後、支那人が統治に来てからです。その第一発は1959年8月7日に起きた「八七水災」でしょう。

日本統治時代(1895年〜1945年)は、山林は厳しく保護されて勝手に伐採はできません。至る所に保安林があり、道と言う道の両側には、並木が生い茂って緑のトンネルを創っていました。暦にも植林デーまであって、小学校の子供たちにも国土緑化の重要さを教えていました。お陰で台湾は今に至るまで緑の美しい島、フォルモサと称されることができました。

当時の台湾の為政者は日本人や日本政府に対して大いに感謝すべきでしょう。戦後、日本人が去ると土足で入り込んできた"強盗"どもと内に潜んでいた山ねずみどもが大挙蠢動して山を荒らし始めます。

1947年2月、台湾人の大悲劇、二・二八事件後、当時の長官の陳儀が責任を取らされて"下野"、その後釜に魏道明という貪欲な男が台湾統治の最高長官として来ます。彼は、直ちに大甲渓源流の高山地帯にある千年不伐のすばらしいヒノキ林(日本人が水土保持として残したもの)に食指を動かし、一地方長官の特権を利用して濫伐、それを香港へ売り付けて得た大金を着服してアメリカへ高跳びしてしまいました。そのしっぺ返しはてきめん。"八七水災"として台湾人の身に降りかかりました。計り知れない多くの財富と人命が大洪水に呑まれてしまいました。

この生々しい教訓があったにも関わらず、蒋介石、蒋経国父子は、共産党に追われて一緒に台湾に逃げ込んできた引退後の敗残兵どもを養う為に、日本人が今まで進入を厳禁してきた山地をそれ等敗残兵に開放して開墾させます。それで、リンゴ、梨、水蜜桃等平地でできない温帯果物が高山から平地に流れ出しました。

瓦房店の桜花林の物語からつい台湾の土石流に話が飛んでしまいましたが、ともかく、私が言いたいことは、木や緑を愛さず、国土を緑化する重要性を知らず生霊が生存の為に頼る生態環境の保護を重視せず、ひたすら一己の栄利ばかり希う外来集団や貪官汚吏に為政を任したらどうなるかということを・・・

このままで行けば遠からず我が生まれ故郷の緑の島、美しい島フォルモサは、レーチェル・カーソン女史が警告する"沈黙の春"の日が、必ずやがて来るであろうことを憂慮するばかりです。

杞憂であれば良いが。南無阿弥陀仏!


〔後記〕
本文内に、支那、支那人とありますが、決して誹謗とか蔑視する意はないことを声明しておきます。この漢字自体には悪意は無い筈。

ただ、国際的に通用している呼称、CHINAあるいはCHINESEに従ったまでです。

“支那”はもとよりCHINAの漢字化。私は小学校の時から支那(シナ)、支那人(シナジン)と教えられ、聴き慣れてきているので、中華とか中国人とかはなかなか馴染められません。

日本も、戦前、ずっと"支那"で通って来たのに、どうして戦後になって"中国"に変わってしまったのでしょう?

そもそも"中国"とか"中華"とかは、世界のセンターで、文明、文化の最も発達した国及び人民と言う歯の浮いた様な"唯我独尊"的な発想による自称で、この国の周囲の国々や人民は悉く野蛮、化外の民、所謂、北狄、南蛮、東夷、西戎、とけなしています。自分でひそかに"俺は一番偉い、お前達は皆バカ野郎だ"といくら思っても差し支えなかろうが、それを些かでも表明したり、他人に押し付けたりする様な行動に出ると嫌悪感が出てきます。

日本人が支那人のご機嫌を取る為に彼らの発想に迎合して、今まで呼び慣れてきた支那を"中国"に変えたでしょうが、その必要があるだろうか?

大正11年2月生まれ
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