スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

1月, 2021の投稿を表示しています

70余年の時を経て「日章旗」が台湾へ里帰り

70余年の時を経て、一枚の「日章旗」が台湾へ里帰りを果たしました。 里帰りを果たした 日章旗 この日章旗は、先の大戦中、高砂義勇隊(台湾の原住民によって編成された部隊)隊員の深山金夫さんが出征する際、家族らから贈られたもので、旗には武運長久を祈る寄せ書きなどがされています。 深山さんの奥様とお子様から「オ父サン元氣デ」の寄せ書き ニューギニアで戦死した深山さんの日章旗は、米兵士が持ち帰って戦後、長く米国にありました。しかし、兵士のご令孫が、米国で「寄せ書き日の丸」の遺族への返還活動を展開している非営利団体 「OBON SOCIETY」 に寄贈し、日台関係者の協力を得て、深山さんの故郷が台湾であることを特定。今回の里帰りに至りました。 日章旗の持ち主を特定するため、日本人の永山英樹さんと台湾人の郷土史研究家・王宗楠さんが協力して調査にあたり、旗に記されていた「ブセガン」の文字から、深山さんが台湾東部の花蓮県富世村のタロコ族であることがわかりました。その後、王さんの現地調査によって、深山さんのご息女を見つけ出すことに成功しました。 2019年12月18日、台湾南部・高雄の克朗德美術館にて、日章旗の寄贈式典が執り行われました。 日台双方から約30名が駆けつけた 上述の永山英樹さん、王宗楠さんのほか、高雄市關懷台籍老兵文化協會の吳祝榮・理事長、台湾籍元日本兵の趙中秋さんら、約30名が出席しました。 永山英樹さんは、高砂義勇隊隊員の戦時中の偉大な活躍に敬意を表するとした上で「深山さんら原住民の精神こそが世界に誇るべき『台湾魂』、『台湾精神』である」と語りました。 永山英樹 さん 王宗楠さんは「日章旗の展示を通じ、より多くの台湾人の若者が日本統治時代の50年の歴史に関心を持って理解を深め、国民党政権下で行われた歴史の歪曲を正すことに長期的な意義を感じている」と話しました。 王宗楠さん 今後、日章旗は、高雄・旗津にある戰爭與和平紀念公園主題館にて保管・展示される予定とのことです。 同館を管理する上述の吳祝榮さんは筆者に対し「展示方法や時期は検討中だが、それまでは自分が責任を持って管理する」と話し、「歴史は今の政治とは切り離すべきで、しっかり日章旗は保護しなければならない」と今後の同館の使命を語っていただきました。 ※2021年1月31日現在、日章旗は戰爭與和平紀念公園主題館にて

台湾で神様となった日本人を祀る小さな祠〜「もう一回さん」として愛された日本人巡査・小林三武郎

台湾北東部に位置する宜蘭県の冬山郷太和村には日本人を神様としてお祀りしている小さな祠がある。 日本人巡査・小林三武郎を祀る祠 現地では「福徳正神(土地公)」という元々、中国の民間信仰に起源を有し、台湾においても広く信仰を集める神様として位置付けられている。そして、ここでは小林三武郎(こばやし・さぶろう)という日本人がその神様になっている。 残念ながら、名古屋出身と伝えられている小林氏の戸籍謄本は見つかっておらず、遺族も特定できていないため、詳細はわかっていないが、地元の古老の話として小林氏がどのような人物か一部記録が存在している。 古老の証言をまとめた記録によると、小林氏は日本統治時代、現地で森林保護などを担う巡査として赴任した。人情味に溢れた温かい人物で、地元民に厚く慕われていたという。 小林氏の人柄が想像できる逸話が今も伝えられている。 質素で慎ましい生活を送っていた小林氏は、地元民には食糧を浪費するばかりの雄の家畜の飼育を推奨しなかった。自らが率先して種付け用の雄のニワトリやアヒル、豚を飼育した。そして、地元民の飼育する家畜が種付けを必要とした際には、自身が飼育する家畜を無料で何度も提供したという。 小林氏は家畜を専門としないため、うまくいかないことも多々あったが、「もう一回」と言って諦めずに試みた。そして、次第に現地では、小林氏のことを「もう一回さん」と呼ぶようになったそうだ。 小林氏は現地で結婚し、80歳過ぎで亡くなった。1944(昭和19)年秋に現地で行われた送別式はとても盛大で、地元民は悲しみに暮れたそうである。 戦後、日本が台湾から引き揚げた後も地元の人々から愛され続けた小林氏は、地元民によって祠が建てられ、いつまでも忘れ去られなかった。そして、1969年には現地の黄玉生氏の呼びかけで建設費を集め、再建された。 さらに2001年になると、小林氏は土地の守り神である福徳正神になったと唱えられるようになり、ついに2004年、現地の土地公廟と永福宮三山国王廟にお伺いを立てた結果、小林氏は福徳正神として祀られるようになった。 父が祠の建設者で、現在、祠の隣で茶業を営む黄添桂さんによると、神様となった小林福徳正神の存在は地元民に広く知られ、今も信仰を集めているという。黄さん自身もたびたび祠にお供え物をしており、土地公の誕生日にはお祭りも行っているそうだ。また祠

台湾籍兵士が歩んだ数奇な歴史を学べる「戰爭與和平紀念公園」

台湾南部・高雄の旗津半島にある戰爭與和平紀念公園(戦争と平和記念公園)。 戰爭與和平紀念公園 公園内の記念館では台湾籍兵士の歴史を学ぶことができる ここは台湾籍兵士が歩んだ数奇な歴史を学ぶことができる貴重な場所です。 自らも台湾籍兵士であった故・許昭栄氏が、台湾籍兵士の歴史を風化させず、戦没者を鎮魂するため公園設立及び慰霊碑の建立に尽力されました。 一般財団法人自由アジア協会発行の「権田猛資のフォルモサニュース」に寄稿した、許昭栄氏の死から10年経った2018年に執り行われた戦争と平和記念公園での式典に参加した際のコラム(2018年6月2日)を転載します。 許昭栄氏の死から10年、知られざる台湾籍兵士の存在  台湾南部の高雄市・旗津半島にある「戦争と平和記念公園」。この公園は、知られざる台湾籍兵士の歴史を学ぶことができる貴重な場所だ。  言うまでもなく、台湾はかつて日本統治下にあった。そのため先の大戦では多くの台湾人が「日本人」兵士として血と汗を流した。その数は軍人・軍属を合わせて20万人を超え、そのうちの3万人以上が戦争で命を落としている。そして戦争が終わり、半世紀にわたる日本統治時代が幕を閉じると、新たな統治者として中華民国政府が台湾に上陸した。当時、第二次国共内戦によって兵力不足に陥っていた蒋介石率いる国府軍は、台湾において兵士の募集に力を入れた。自身も台湾籍兵士であった故許昭栄氏の調査・推算によると、1万5千人の台湾人青年が国府軍に参加し、少なくとも1万人〜1万2千人が国共内戦の前線である東北、華北に投入された。そのうちの約8割が死亡し、約2千人は人民解放軍の捕虜となった。そして捕虜となった者は思想改造され、人民解放軍に組み入れられた後、朝鮮戦争で戦没した人も少なくないという。  前述の許昭栄氏は、こういった台湾籍兵士の人権と権益を守り、戦没者の鎮魂と歴史を風化させないため、「戦争と平和記念公園」の設立と慰霊碑の建立に尽力した。しかし許昭栄氏ら台湾籍老兵の声に対し、高雄市政府や市議会は真摯に向き合っていたとは言えない。1998年6月末には土地の提供を拒む高雄市政府に対し、一週間にわたるリレー式ハンガーストライキを展開した。この時の心境について許昭栄氏は「暑い真夏、熱鉄身を焼くようなコンクリートの上に座り込み、カンカン照り灼く太陽のしたで、私達老兵は最後の『

池上一郎博士文庫開館20周年式典に参加して

開館20周年式典集合写真(2021年1月16日) 台湾南部・屏東県竹田にある池上一郎博士文庫は、今年開館20周年を迎えました。 小さな木造建築の入り口には「亜細亜最南端の日文圖書館」の看板がかかり、文庫内には2万冊近い日本語書籍が所蔵されています。 かつて日本時代の台湾に生まれ、日本語教育を受けた地元の日本語世代にとって、日本語に触れられる文庫は、人々の憩いの場でもあります。日本語世代の減少に伴い年々利用者も減少しているものの、最近は日本語を学んでいる地元の大学生や観光客などが訪れているそうです。 毎年1月には開館日である1月16日に合わせて式典が行われています。例年、日本からの参加者も多く、日台民間交流の拠点としての役割も果たしています。 文庫の名前にもなっている池上一郎博士は、戦時中、竹田に赴任した軍医で、現在の竹田国民小学校舎内にあった陸軍野戦病院の院長を務めた人物です。地元民から愛されていた池上博士のエピソードは今もなお地元で語り継がれています。 池上博士が院長を務めた野戦病院跡地(現・屏東縣竹田國民小學) 戦後、40年以上にわたって竹田国民小学で教職を勤めた宋天蔭さんによると、自身の教え子も幼少期に池上博士に治療してもらったことがあるそうです。教え子は檳榔樹に登って落ちて怪我をしてしまい、母親は池上博士のもとに連れて行きました。治療後、池上博士はお金を受け取ることはなかったといいます。池上博士は軍医でありながら軍人にとどまらず、退勤後には地元民への治療も快く応じていたそうです。当時、台湾では伝染病のマラリアが流行し、その特効薬のキニーネやアテブリンは非常に希少で高価でした。しかしそれらも無償で提供していたそうです。 また、ある日池上博士が自転車で走っていた際、醤油の行商人とぶつかってしまい商品の醤油が地面にこぼれてしまったことがあったそうです。池上博士はすぐに弁償しようとしましたが、その行商人は相手が池上博士だということがわかると、受け取ることはできないとしてお金を返したそうです。 宋天蔭さん 地元民と積極的に交流し、親睦を図っていた池上博士が、竹田に滞在したのは1943年から終戦までの2年足らずですが、池上博士にとって竹田は特別な場所となりました。 戦後も池上博士は台湾との交流を続け、晩年に自身の蔵書を竹田に寄贈しました。早稲田大学留学時代に池上博士と親

【2021年1月16日】アジア最南端の日本語図書館「池上一郎博士文庫」開館20周年式典のお知らせ【オンライン配信有り】

2001年1月16日に「アジア最南端の日本語図書館」として開館した台湾南部・屏東県の池上一郎博士文庫。 池上一郎博士文庫 毎年1月には開館記念式典が行われており、開館20周年の節目の年である今年は1月16日(土)に行われます。 ▼式典詳細 https://www.facebook.com/events/536767817281825 今年は新型コロナウイルスの影響で日本からのご参加が難しいですが、文庫よりご連絡をいただき、拙YouTubeチャンネルにおいてライブ配信をさせていただく運びとなりました。 ▼1月16日の配信URL https://youtu.be/-Z7aEJy8Kyw 当日は日本時間9時45分頃より配信開始予定です。 ぜひ多くの皆様とともに、日台の絆を紡ぎ育くみ続けている池上文庫の開館20周年をお祝いできればと思います。 当日の配信では、池上博士と親交のあった劉耀祖・同文庫理事長をはじめ、関係者の皆様や日本語世代の方々へのインタビューも試みたいと思っています。 劉耀祖・池上一郎博士文庫理事長 ▼池上文庫公式Facebookページ https://www.facebook.com/ikegamibunko ▼池上文庫に関する拙稿 ・屏東の池上文庫―日台の絆を紡ぎ育む小さな日本語図書館 https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00819/ ・屏東的池上文庫──滋育臺日深厚情誼的小型日文圖書館 https://www.nippon.com/hk/japan-topics/g00819/ 2020年式典の集合写真

銀髪が語る日本語世代教育の思い出(作者:台湾少年工 東俊賢さん)

東俊賢さん 1895年〈明治28年〉日本が日清戦爭で勝利し4月17日下関の料亭春帆楼で講和条約,5月17日条約発効¸正式に台湾割譲すると, 教育面で台湾總督府は明治維新最初米国留学生伊沢修司を学部長と任命した。彼は無料義務教育を唱え, 日本語教育を普及させ同化台湾統治を主張した。 日本語を教える為¸日本から6人の若人教師を呼び寄せ¸台北士林芝山巌で¸国語伝習所設立21人の生徒を集め¸台湾最初の日本語教育の発祥地でした。1896年1月1日元旦祝いで台北城内に行くと混乱に遭い, 学校に 引き帰る途中,数百人の 反日派に遭遇殺害された。【六氏先生】記念として神社、歌が作られ台湾の子供達が歌った。 六氏先生事件後の1896年に国語伝習所設立更多く,日本語教育を行ない日本人に同化する政策で¸1898年.7月勅令を以て台湾人学生の通う学校を公学校と称し,日本人学生入学の小学校と区別し, 国語普及に務めた。 1899〈明治32年〉南北双壁と称する¸南に台南師範学校、北に台北師範学校設立, 優秀教員を養成し公学校教育の発展に大役割を果せた。 其の後概ね伊沢先生の意見に基いた国語普及政策は,台湾總督府は産業開発に,基本的実業技術人材の養成に必要な事で,農工商の実業教育にふさわしい, 作文、読書、習字科目を加え, 教科書内容には歴史、地理、農工商知識増加修正した。かつ台湾の悪い習慣¸阿片、纏足、衛生等の改善を強要した。1918年には公学校在学人数が十萬人を超え¸本島人子供の進学需要で中等学校の設立に迫まれた。 中等学校には日本人学校に第ー中学校、台湾人学校には第二中学校と差別した〈台中一中例外台湾人学生〉。しかし中学校進学には日本人学生優先入学の為¸本島人学生には倍以上の努力が必要でした。 明治43年生れの父は完壁な日本語教育の公学校卒業すると台南ミッションスク一ル長栄中学〈英国人創設〉に進学したが,台湾当初の農業専修学校が設立したので農家の祖父は途中で転校させた。父の通信簿を見ると, 学業科目:講読、作文、書法、算術、珠算、法制経済、作物。園藝、土壤、肥料、畜産、養蠶、林業、農産製造、作物病虫害、実習技能等有り一等賞で昭和三年卒業, 南化庄長の拔擢で産業組合に入社, 日本語流暢¸書字秀麗, 文章達者珠算にすぐれ, 物の見方、考え方も日本式で¸組合の発展に好評で昭和13年春,優良組合人

未知の決戰秘密武器「櫻花、秋水」 と台灣少年工(作者:台湾少年工 東俊賢さん)

台湾少年工時代の東俊賢さん 1942年12月8日真珠湾攻撃,緒戰破竹の如し,連戦連勝, 舉國歡喜沸とう! しかし一年足らずで米軍は,制海空權奪回, 空母飛機で反攻日本本土に迫つた。 日本海軍は飛行機増産計劃で,高座附近の土地徴收高座海軍工廠を設立したが國內工員缺乏,台湾向日本教育を受けた少年に,すべて官費で勉強しながら飛行機造り, 旧制甲種工業學校或專門学校卒の資格が取得出来る優遇條件で,海軍少年工8400人募集し,内地で飛行機増産に従事した。〈三菱、中島、等飛行機生産工場にも派遣した〉 僕は台南商業学校在學中, 飛行機と物造りに興味,工科学校に転じようとに親許可無し無断で印子を押して志願した。 1944年5月基陸港から御用船淺間丸で〈15000ton〉日本に渡つた。 航海中敵潛察知¸機雷3個海中投入,爆発の水柱が高く噴き出し,船は搖れ動き吃驚し怖かつた。航海中每日緊急警報が鳴ると,救命袋を背おつてボ一卜に乘りこむ非常訓練が行なわれた。幸い無事日本にたどり着いた。 一週間後追濱海軍航空技術廠派遣され, 東京灣に面した町屋寮に住んだ。海軍管理方式で, 艦船勤務帰りの,木村寮長は非常に嚴しく, 小事欠点見つかると團体体罰,對向ピンタ、腕立伏せ等改心棒でたたかれた。 海軍航空技術廠は山本五十六が,飛行機國產化を唱え昭和初期に創立,全国の大学、專門学校航空系卒を集めた研究人員2000多人,工員3万人日本唯一無二の航空研究所。 入廠手続で飛行機部第四工場, 聞いた事のないガス熔接組に編入された。工場內は空席だらけ,僕達18人は代りの重要人員で¸すぐ嚴しい熔接技術訓練が, 予定進度の下で,組長自づから指導,理論と鐵片の熔接實習始まつた。成績評価で¸僕を含む三人が¸選出特殊金屬熔接技術を習つた。熔接は非常重で要な過程で 要求は嚴しかつた。 太平洋戰爭末期, 日本の謂ゆる「絕對國防圈」は米軍の突破で潰れ,日本本土は危険状態,軍司令部「捷號作戰」計劃の新作戰方針は, 劣勢戰局の挽回で,新武器開發出現を非常に期待していた。 「櫻花」は太田正一少尉が南洋戰地で海空戰を目撃¸日本飛行機損失甚大。彼は未熟練飛行員でも操從可能な人間爆彈で敵艦轟沈を考案した。この構想を軍当局から空技廠に回わされ¸和田廠長が設計担当の三木忠直技術少佐に, その說明を聞かせたが, 帰還不可能な飛行機であり¸技術の冒

山中貞則・自由民主党税制調査会長による台湾人元日本兵の戦後補償問題に関するスピーチ全文(1987年7月1日、台湾・三地門にて)

以下は1987年7月1日に台湾南部・屏東県三地門を訪れた山中貞則・自由民主党税制調査会長による台湾人元日本兵の戦後補償問題に関するスピーチ全文の文字起こしです。 山中は日本統治下の台湾において、同地の里港東国民学校で教鞭をとっていた経験があり、当日はかつての教え子らが駆けつけました。その際、政治家として、また先生として当時懸案となっていた台湾人元日本兵の戦後補償問題について、解決に向けての決意が語られました。 実際、このスピーチから2ヶ月後に議員立法によって台湾人元日本兵の戦傷病者及び遺族に特定弔慰金が支給されることとなりました。 当事者である元日本兵や遺族に寄り添い、解決に向けて尽力した政治家の言葉には、厳しい制約の中で少しでも結果を出していく決意と使命感が感じられ、また一先生として愛に溢れた言葉が紡がれています。 一方で戦後75年経った今、なお「日本人」としての補償が受けられていない台湾人元日本兵に対し、心を寄せて取り組んでいる国会議員は皆無ではないでしょうか。山中のスピーチは、歴史に向き合い、様々な制約の中で真の「解決」を引き続き模索する責任が日本にあると、改めて考えさせられる内容です。 スピーチする山中貞則・自由民主党税制調査会長(当時) 山中貞則・自由民主党税制調査会長による台湾人元日本兵の戦後補償問題に関するスピーチ全文(1987年7月1日、台湾・三地門にて) みんな、一言で言うと、大変懐かしい。私が三地門まで上がってきて、そして、補償の問題はもちろんだけれども、私が里港東国民学校で、身体大きいから、もうだいぶやつれたけれど(?)。それで力も強い三地門の精鋭をね、相撲をとって教えたんです。先生もみんなにだいぶ投げ飛ばされた。 しかし先生は一足先に戦争へ行った。その時にみんなが、ここから里港まで、走って、そして「先生、頑張ってください」と言って、手を振ってくれたわけであります。私は何年前かな?15年?ここにやって来て、その時は台湾全島から来てもらえる、おそらく来てもらえるだろうと思いました。しかし、集まった人々に対して、自分が日本の国会議員であるから、必ず、みんなのことを自分が解決する、自分は、それまでは絶対に死なない。自分の命のある限り、みんなのために心からのお礼をしたい。 今までもう42年経ってしまいましたですね。戦争が過ぎてから。いけないです。日本が

あの時、台湾は日本だった(作者:生き残りの元日本兵 楊馥成)

1922(大正11)年生まれの台湾出身の元日本兵・楊馥成(よう・ふくせい)さんにエッセイ「あの時、台湾は日本だった」をご寄稿いただきました。忘れられた台湾出身元日本兵の思いを多くの日本人に知っていただきたいと思います。 楊馥成さん あの時、台湾は日本だった     あの時、台湾は日本だった。あの時、台湾住民も日本国民であった。国家存亡を賭けた太平洋戦争たけなわのあの時、台湾の若者もこぞって勇躍戦場に馳せ参じ、数多護国の生贄と散華していった。  太平洋戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、5万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医療員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで大日本帝国の為に血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士たちは、生きて祖国に帰ってきても、占領に乗りこんで来た敵側統治者からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖圧政下で、日本に加担したかどに問われて残虐な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった(私も更なる拷問の挙句、罪の判決もなしに7年間の牢獄生活を強いられた)。 況や、陣没された英霊(私も終戦の翌々年親友の遺骨を首にぶら下げて戦地から故郷に帰った)に、誰も関心を寄せる者はありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府は、なぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?  戦後まもなく沖縄本島南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はつい2016年まで見られませんでした。あの時、数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及び支那大陸の各地で、日本国民として皆様と生死をともにして戦い、赫赫たる手柄を立て、又戦場の露と消え去った無数の英霊達も「大日本帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していったはずだったのに。  これらの英霊達が今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に曽ての戦友たちとともに奉祀して慰拝致したいと、数年来、地元

【台湾ニュースクリップ】蔡英文総統の新年談話を読む

1日、台湾の蔡英文・中華民国総統は2021年の始まりにあたり 新年談話 を発表した。 冒頭、2020年に世界中を襲った未曾有の悪疫である新型コロナウイルスに言及。台湾では昨年の年初より水際対策や国内の防疫対策を徹底し、世界的にも類を見ない迅速な対応で「成功」を収めている。 2日現在 、国内の感染確認者は808名、うち686名が隔離を解除され、感染による死亡者は昨年5月10日を最後に累計7名にとどまっている。 今年2021年に総統就任から5年目を迎える蔡総統は最重要な責任として「変わらない生活(如常生活)」を指摘。グローバル経済の再起への流れに従い前進する決意を語った。 2020年、激動の国際社会において「変わらない生活」を取り戻している台湾はそのプレゼンスを大いに高めた。そして、「グローバル戦略の観点から、台湾の地位はより一層重要になっている」(蔡英文総統)。中でも国際社会が注視しているのは中台関係(両岸関係)の行方だ。蔡総統は「両岸関係の安定は最早、台湾海峡両岸の議題にとどまらず、インド太平洋地域、そして国際社会全体の焦点」と語った。 中国の台湾に対する「文攻武嚇」(言葉による攻撃、武力による威嚇)は2020年も繰り返し行われた。日本も推進している「自由で開かれたインド太平洋」構想の実現においても無視できない重大な脅威である。 蔡総統は「北京当局が対立を解決し、両岸関係を改善する意思があれば、対等と尊厳の原則のもとで意義ある対話を促進することを望む」と中国側に呼びかけた。 一方、習近平・中国国家主席は1日の全国政治協商会議の茶話会において、改めて「一つの中国」原則と「92年コンセンサス」の堅持を断言。加えて2021年が中国共産党成立100周年であり、辛亥革命110周年であることに言及し、「社会主義現代化国家の全面的建設」に向けて前進すると語った。 対等と尊厳に基づく対話を呼びかける蔡総統に対し、「一つの中国」原則と「92年コンセンサス」の堅持で一貫しており「文攻武嚇」を繰り返す中国の間で、一触即発の情勢は今年も変わらないだろう。また中国共産党成立100周年の節目に、「偉大なる中華民族の復興」を掲げる中国が核心的利益としての台湾を「統一」するために武力を行使する可能性も否定できない。 「自由で開かれたインド太平洋」構想を提唱し推進を目指す日本にとって、台湾海峡を含む

プライバシーポリシー

この記事は、当ブログにおける個人情報の保護指針、およびその扱い方についてまとめたものです。 個人情報の収集について利用者は匿名のままで、当サイトを自由に閲覧する事が可能です。 お問合せ等、場合によっては、利用者の氏名やメールアドレスなどの個人情報の開示をお願いする事があります。 しかし、利用者の個人情報を利用者の許可なく、当サイトから第三者へ開示・共有する事はありませんのでご安心ください。 当サイトに掲載している広告について 当サイトでは、第三者配信の広告サービス(Googleアドセンス)を利用しています。 広告配信事業者は、ユーザーの興味に応じた広告を表示するためにCookie(クッキー)を使用することがあります。 Cookie(クッキー)を無効にする設定は、お使いのブラウザによって違います。 お使いのブラウザをご確認の上、設定してください。 アクセス解析について 当ブログはGoogleによるアクセス解析ツール「Googleアナリティクス」を利用しています。 Googleアナリティクスは、トラフィックデータの収集のためにCookieを使用しています。 このデータは匿名で収集されています。 個人を特定するものではありません。 Cookieを無効にすることで収集を拒否することができます。 お使いのブラウザの設定をご確認ください。 この規約に関する詳細はこちらです⇒Googleアナリティクス利用規約 Adsense、Googleアナリティクスのプライバシーポリシーに関する詳細はこちらです⇒Googleポリシーと規約 免責事項 当ブログの記事は、管理人である権田猛資の主観により記事を書いています。 歴史的事実や事実関係などの判断は、読者様の責任でお願いします。 掲載情報には、できる限りの正確さを心がけております。 当ブログを利用することでトラブルが発生したとしても、責任を負いかねます。 あらかじめご了承ください。 著作権 当ブログの文章、画像等の著作権は権田猛資及び各作者にあります。 全体一部を問わず無断使用はできません。 運営者 権田猛資 初出掲載:2021年1月3日