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YouTubeメンバーシップ「台湾探究サポーター」のご案内/過去配信コラム一覧

皆様、こんにちは。
YouTube「ゴンタケ台湾Channel」運営者の権田猛資です。

2019年9月末に開設した当チャンネルでは、「台湾を学び、日本を知る」をコンセプトに掲げ、台湾の日本語世代の方へのインタビュー、日台交流秘話や最新の台湾情報を記録・発信しています。

おかげさまで、現在、1860人以上(2021年6月7日時点)の皆様にご登録いただきました。ご登録いただいている皆様、日頃よりご視聴いただいている皆様に改めて感謝申し上げます。

さて、当チャンネルでは2021年3月1日よりYouTubeメンバーシップ「台湾探究サポーター」を開始しました。こちらは月額490円の有料サービスです。

こちらを始めた理由は、当チャンネルの運営を持続可能なものとし、取材の幅を広げるためです。
いただいた収益はチャンネル運営費用(撮影機材や編集ソフト等)及び取材費、交通費として活用させていただきます。

メンバーシップにご登録いただいた際の特典として、毎週の「台湾探究コラム」の配信とメンバーシップ限定の動画配信を行なっております。
もしご興味を持っていただきましたらご登録いただければ幸いです。

▶︎ご登録はこちら

以下は過去に配信したコラムのタイトルです。(一部記事は無料公開しています)


第1号 
日台共通の「先輩」である日本語世代(2021年4月13日)

第2号 
親日でも反日でもない「懐日」としての日本語世代に向き合う(2021年4月16日)

第3号 

第4号 
日本は「台湾は中国領土の一部」と認めているか?〜 台湾独立運動巨匠からの回答(2021年4月23日)

第5号 

第6号 
「差別はなかった」日本統治時代の教育——陳淑英さん(1929年生まれ)(2021年5月7日)

第7号 

第8号 
蔡英文総統再選就任から一年〜「有事」認識を共有する国民と政権の団結(2021年5月21日)

第9号 
緊急レポート コロナ禍の台湾の今〜垣間見た台湾人の一体感、生き抜く力、誰も排除しない温かさ(2021年5月27日)

第10号 

第11号
強まる米国の台湾重視〜「戦略的曖昧性」は見直されるか(2021年6月11日)

第12号
台湾女子教育の先駆・台北第三高等女学校(2021年6月18日)

第13号
日台を蝕む「赤い浸透」〜台湾理解こそが対抗措置に(2021年6月25日)

第14号
台湾出身「元日本人」の国籍問題〜人権問題、そして日本の誠意が問われる問題(2021年7月4日)

第15号
日本政府高官による相次ぐ「台湾」発言〜失言か意図的か(2021年7月9日)

第16号

第17号
最新世論調査から見える台湾の「今」〜強まる台湾人意識と現状維持の中での独立志向(2021年7月23日)

第18号
コロナ禍の台湾の今〜二ヶ月で感染拡大を抑制、警戒レベル引き下げへ(2021年8月1日)

第19号
日本語との邂逅で今がある——張文芳さん(1929年生まれ)(2021年8月8日)

第20号
終戦の日に考えたい台湾に残されたままの「未了の戦争」(2021年8月15日)

第21号
愛国心旺盛な女学生の戦争体験——頼トミコさん(1929年生まれ)(2021年8月22日)

第22号
初の日台与党間対話が実現〜制約を乗り越え「議員外交」を軸にした連携を(2021年8月29日)

第23号
台湾アイデンティティを考え抜いた日本語世代エリート・楊基銓(2021年9月5日)

第24号
中正紀念堂から蒋介石銅像を撤去する動き〜「脱蒋介石」は台湾人の、台湾人による、台湾人のための国づくり(2021年9月12日)

第25号
自民党総裁選と台湾(2021年9月24日)

第26号
国慶日に考える「中華民国」と「台湾」(2021年10月10日)

第27号
台湾出身「元日本人」の国籍確認請求裁判が結審〜「先輩」からの最後のチャンスに日本人はどう答える(2021年10月17日)

第28号
台湾出身元日本兵の戦後補償問題運動史秘話〜台湾立法委員訪日団の幻の「要望書」(2021年10月31日)

第29号
58%の台湾人が日本の出兵に期待〜最新世論調査から台湾有事に対する台湾人の認識を読み解く(2021年11月7日)

第30号
中国共産党が第三の「歴史決議」採択〜「歴史的功績」なき指導者が目論む台湾併合の夢(2021年11月14日)

第31号
台湾人に生まれた悲哀を日本精神で乗り越えてきた「おばあちゃん先生」——黄秀英さん(1927年生まれ)(2021年12月12日)

第32号
2021年の「台湾」を回顧し、2022年の「台湾」を展望する(2022年1月2日)


第33号
郷土史を語り継ぎ、日台交流を紡ぎ育む池上一郎博士文庫〜曾貴珍館長に聞く、文庫の今(2022年1月21日)

コメント

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